『隠匿』上

 1


 孤月がソファーに身を預けていると、螺旋階段から無月が降りてくるのが見える。

 灯りを湛えるランプの影の向こう。月は角を尖らせている。

 初回カウンセリングを終えた孤月は、アルから無月には言わなくて良い、と言われていた。無月はその事を知っているし、何かあれば向こうから訊いてくると。

 一階に降り立った無月は、後頭部を押さえて俯いていた。少し離れた場所で作業をしている青月は、無月には気が付いていないらしい。

 無月は光の無い瞳で周りを見渡して、孤月を捉えた。孤月は内心ひやりとしながらも、顔には出さないよう手を上げた。

 無月はこくん、と頷き、書架のどこかに姿を消す。孤月はぼんやりとその背を見送って、天を仰いだ。

 空中には女の子が浮いていて、にこにこと微笑んでいる。

 孤月はいきなり現実に戻され、声を上げた。

 驚いた青月が本を落とす音が聞こえた。

「やあ、初めまして。君が孤月なの?」

「ひ、人が空飛んでる」

「ここでは何でもアリだからね。私は上弦っていうの。よろしくー」

 上弦と名乗った女児が、孤月の目の前に降りてくる。孤月は目を白黒させたが、差し出された小さな手を握った。

「よ、よろしく。孤月です」

「うん、よろしく。あなたと話してみたかったの」

 上弦はソファーに飛び乗って、孤月を見上げる。十に満たないだろう。ころころした手足が愛らしい。

「あなたの学びは何?」

 しかし、話し方は子供らしくない。女性までは行かないが、それでも大人に近いような声色だ。

「分からないよ。俺は俺のことを理解する、が今の宿題だから」

「そうなの。それは一番大変な宿題だね」

「君は?」

「私はずっと前の過去生で悪いことをしちゃってね。子供からやり直しだからずっと子供なの。健やかな心が私の学び」

「そういう事もあるのか」

 そうよ、と上弦は頷いた。

「まあ全然終わらないから、何か足りてないんだろうなあとは思ってる。孤月も何か命題があるはずだよー。まあそれだけでもないから難しいんだけどねえ」

「悪い事って、何をしたんだ?」

「人を殺しちゃったの。予定外だったからその人のカリキュラムも狂わせちゃって。それで子供から学び直し」

 上弦は結ばれた髪を撫で付ける。

「魂ってね、生まれる前にある程度何をしたいか決めて、打ち合わせもしてから生まれるんだよ。でも、現実に生きているわたしたちはそんな事知らない。だからイレギュラーも起こるんだ。予定に無かったことをしちゃったり、逆にしなかったりしちゃう」

「そういうもんなのか」

「今はね、あんまりそういうことしなくなったんだけどね。イレギュラーがあんまりにも多いから、魂同士で打ち合わせしなくなったの。たまに頼まれる事はあるけど、基本的には決め事をしないで生まれる。もう自分で自分の学びを取っていく時代になったんだねえ」

 女児らしくない顔でそういう上弦に、孤月は老婆を重ねてしまう。彼女はとても疲れていて、すぐに消えてしまいそうだった。

「じゃあ昔はどうやって生きて何を起こすかまで全部決めていたのか?」

「そうだよ。全部の魂がひとつひとつ関わる人たちとぜーんぶ決めていたよ。だからって全部上手く行っちゃうと学びにならないから、何かしらはだめになるよう調整して。今にして思うと、あんまり修行とは言えないよねえ」

「変な話だけど。その、俺たちみたいに意識を持ってる魂っていうのは、学びが終わったらどこに行くんだ?」

「大抵は元の場所に還るんだよ。元の場所にはそれはそれは大きな意思の軸があって、その周りで守られながら魂は眠っているんだよ。はっきりと起きている方が変なんだ。起こされたと言ってもいいのかもね」

「上弦はそこに行った事がある?」

「ないよ。わたしもむっちゃんも、あっちゃんもその上もない。ここよりずっとずっと上に行かないと、元の場所には還れないんだって」

「じゃあ学びが終わらなかった魂はどうなる? 期限とかあるのか?」

「期限はないよ。ないけど」

 上弦は言葉を切った。気合の入った声を出し、ソファーから飛び降りる。そして、仰向けになって宙を漂い出した。

「魂そのものには寿命があると思うよ。あっちゃんは教えてくれないけど、失敗する度に大事な何かが擦り切れる感覚はあるから。それが擦り切れ切ったら終わり。たぶん元の場所にも、現実世界にも行けなくなる。消えた魂をいくつか見た事もある。どれも悲しいことに二度と戻って来なかった」

 上弦はそのままふわふわと上に浮かんで行ってしまう。孤月はその姿を見送り、溜息を吐いた。


 2


 上弦と離れてすぐの事だった。

 孤月がコーヒーでも飲もうかと身を起こすと、遠くで何か話す声がした。

 一人は無月、一人はアル。青月はまだ同じ場所で作業をしている。

 孤月は気怠さを引き連れて立ち上がり、声がする方へ向かう。何となく姿を見られてはいけないと思い、本棚の隙間を縫い、姿を隠しながら。

「そういう訳だ。彼のカウンセリングは僕がやる」

「分かった。それで良いよ。それよりも」

 無月がアルに、無機質な声で答えていた。

 孤月は本棚と本棚の間にしゃがみ込み、そっと様子を窺う。

 無月は頭を時折押さえて、酷く辛そうな顔をしていた。

「そろそろ上弦を次に進められないかな? あのままだとお迎えが来そうだよ」

「……上弦か。まだ子供の姿のままなんだろう?」

「そう。でもあれは自分で選んでいるようにしか見えない。次に進んでいいって誰かが言わないと」

 アルは柔和な表情を少し固くして、首を振った。

「申し訳ないがそれは出来ない。彼女の罪が重すぎる。まだ償いに足りていないんだ」

「それでも、上弦が消えてしまうよりいいでしょう? 上がった先でも償いをすればいい」

「駄目だ。彼女がやってしまった事は取り返しが付かない。当時のやり方では余計にだよ。それでめちゃくちゃになってしまった魂はもう還ってこないんだ」

 無月はさらに顔色を悪くして、黙った。

 アルがその頭に優しく手を置く。

「分かるだろう? 無月は賢い子だ。ルールは守らなくてはならない。誰かが消えてしまったとしても、それは大いなる意思が決めた事だ。彼女は大きな愛を知らないと次に進めない。その為の手伝いをするんだよ」

「……分かった。この話はもういい」

 無月は諦めたように言った。アルは少し悲しそうな顔をしたが、すぐに切り替えた。

「僕が心配なのは君の方だ、無月。上手く行っていないと聞いた」

「うん。まあそうかな」

「その、どういう風に?」

「どうって?」

 アルがたじろぐ。孤月は思わず身を乗り出しそうになるのをぐっと抑えた。

「君の魂がかなり削れているように見える。今回の生だけでだ。一体何があったんだ?」

「……ルールだから言えない。書架長は自分の問題を軽々しく口にしてはいけないんでしょう」

「それはそうだ。でも、それにしたって」

「大丈夫。有明兄さんに心配して貰う程の事じゃない。それより、今回は孤月が来ているからカウンセリングするなら丁度いいんじゃないかな」

 無月は青い顔をしたまま、アルの側から離れていく。アルは呆然とした後、首を振って笑った。

「執着はいけないよな……」

 その呟きが、空に溶けていく。

 ――孤月はそっとその場から離れ、元いたソファーへと帰ってきた。

 深々と腰掛けて吹き抜けを見上げると、妙に刺々しい月が浮かんでいた。

 青月の姿も無い。ぼんやり歩く魂たち以外、何も無い。

 部屋へ行こうか、と孤月は顔を上げる。夜の静けさにつられたのか、目の前の本棚から本が一つ、落ちた。

 孤月は舌打ちして、その本を拾い上げる。酷く埃を被っており、タイトルは読めない。手で払っても、分厚いのか劣化しているのか白っぽくなるばかりであった。

 表紙を巻くってみると、手書きの文字で「無月」と書かれている。孤月はコーヒーを出して、本に向き合った。

 また一頁めくると、黄ばんだ用紙には文字がなかった。その代わり、カーテンのイラストが風を受けているように揺れている。孤月が指でそっと触れると、途端に強い力で引かれて、孤月は前のめりになった。本に額が触れた時、ぱん、と何かが破裂した。


 3


 孤月が目を開くと、そこは見覚えがある小さな部屋だった。

 そこに誰かが寝ている。若い男だ。煙草の吸い殻や酒の空き缶がそこら中に転がっているが、ベッド周りはとても綺麗に片付いている。

 男が唸り声を上げて、寝返りを打った。そのまま身を縮めて、苦しそうな声を出す。

「頭痛え……。飲み過ぎた……」

 どうやら男は二日酔いになっているようだ。孤月は話し掛けようとしたが、視点が動かせるだけで体も動かせない。もちろん言葉を発する事も出来ない。

 仕方が無いので男を見ていると、ようやっとベッドから滑り落ちるように床に座り込んだ。顔を上げる。

 男の顔にはスノーノイズが掛かっていた。いつかの無月のように、表情も顔付きも窺い知れない。

 男はよろよろと立ち上がり、キッチンへ向かう。孤月もそれに引かれるように、勝手に視界が動いていく。

 薄暗いキッチンには空になったカップ麺やコンビニ弁当のプラごみが置いてあった。水道からコップに水を汲んで、男は一気に飲む。だらしのない姿だ。

 丸椅子に腰掛けて換気扇に向かい煙草を吸う。ぼんやりとスマートフォンをいじって、メッセージを確認している。

「あ! やばいじゃん」

 男は突然振り返り、孤月の方を見た。孤月も振り返ると、壁に時計が三つ掛けられており、十一時を指していた。

 男は立ち上がりカーテンと窓を開ける。からりと晴れ、爽やかな風が吹いている。

 男は急いで部屋の掃除をし、ベッドを整えて、臭い消しやコロンを振っている。起きたばかりの荒れ具合が嘘のように整頓された部屋を見て、よし、と満足している。

 バイブレーションが鳴ったスマートフォンに勢いよく飛び付く。

「もう来るの、やばい!」

 男は慌てて浴室に飛び込んで、シャワーを浴び出した。途中えずくような声がしたが、孤月はそれは見に行かない。

 置き去りにされたスマートフォンに視点を移すと、不思議なことに勝手にロックが外れ、メッセージ画面が映し出された。

『おはよう。あと三十分くらいで着くよー』

『舞ちゃんおはよう、私ももうすぐ行けるよー。涼介、起きてる?』

『さっき起きたわ、待ってるー! ゆっくり来てくださいお願いします』

 男の名前は涼介というらしい。グループは四人いるようだが、確認できる範囲でやりとりしているのは三人だ。

 涼介はタオルを巻いて、半裸で出てくる。急いで服を身に付けて、ローズの香水を付けた。

 孤月はその香りを知っていた。書架の中の自室の香り。髪を整えているこの男は、自分なのだろうか。

 その内に、チャイムが鳴る。

 涼介はやばいやばいと口に出しながら、玄関に向かう。ドアを開けると、陽光の眩しさと共に、二人の女が入ってきた。


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