『正鵠』(下)

 7


 重い瞼を開いた。

 光らしい光は無い。まだ夜なのかも知れない。鼻をくすぐるローズの香りが、ベッドのシーツを優しく縁取っている。

 ここはどこだ、自分は誰だ、とぼんやり考える。

 答えは返ってこない。声に出してみたが、返ってこない。

 何とか起き上がってみる。四畳半くらいの洋室にベッドとすぐ横に机、椅子という簡素な部屋だった。敷かれた絨毯は柔らかそうな赤いもの。

 机の上には本が一冊置いてあった。

 手に取ると、『ひとりぼっちのつき』と書かれた表紙。

 ああそういえば、いつだか孤月という名を貰ったな、と思い出す。

 一頁、本を捲る。


『ひとりぼっちのつきは、たった一人で泣いていた。』


 かなり厚い本だが、その文章が手書きで書いてあるだけで後は白紙だ。

 誰の字だかは分からないが、酷い字だった。何とか読める程度の、踊りを踊っているような字だった。

 その横に付箋が貼ってあった。こちらは少し癖はあるが、整った字だ。


『孤月。男性。年齢は二十代から三十代前半。ローズの香水。煙草の匂いがする。生まれは日本の平成の初期から中期と推察。遊んでいそう』


 誰の字だかは分からないが、これは自分の事を指しているのだと思った。最後の一文には抗議をしたくなったが、抗議しようにも何も裏付けが無かった。

 煙草という言葉を見て、ふ、と思い出した。

 あの時、誰かがやっていた、手を叩くと色々出てくる魔法。

 手を叩くのは格好が悪い、と考えた。その代わりに指を鳴らすと、机の上に見慣れたパッケージとシルバーのライター、灰皿が出てきた。

 おお、と思わず声が漏れる。

 パッケージの封を切って、細長い煙草を取り出す。後は身体が覚えている。咥えて吸いながら火を着けると、深い所まで冷えた煙が入ってきた。

 何本か一気に楽しみ、空咳をする。

 そしてまた、煙草に火を着ける。繰り返し。

 そうやっていると、段々と穏やかな心境になってきた。ふと目線を上げると、扉がある事に気が付いた。

 ここでこうしているのも良いが、外に出るのも良いかも知れない。シルバーのライターだけをシャツのポケットに捩じ込んで、立ち上がる。

 そして、扉の取手を回した。



 8


 孤月が部屋の外に出ると、冷たい風が頰を舐める。

 磨き込まれた柵から身を乗り出して下を見ると、広大な書架の様子が良く見えた。次に上を向くと、三日月が近い所で笑っていた。

「おはようございます、孤月さん」

 横から声を掛けられて振り向くと、青月がオーバーオール姿で立っていた。細身に似合わない量の本を抱えている。

「おはよう。……ええと、ここは?」

「ここは二階です。向こうに螺旋階段があるの、見えますか?」

 青月が指差す方には、長い螺旋階段があった。廊下の幅に合わせて、大きめのものだ。

「ここからぐるりと壁沿いにドアがあって、アクセス権がある方のお部屋があります。孤月さんも鍵を貰ったので、どのドアからでも自分の部屋にアクセス出来るようになりました」

「どのドアからでも?」

「はい。沢山のドアがありますけど、そのどれからも孤月さんの部屋に行けます。ただ、大体の方はドアにこだわりがあって。私も何となく、奥のドアを開けてしまうんですよね」

 はあ、と孤月は目を丸くする。

 鍵なんて貰った覚えが無い。ポケットを軽く叩いたが、あるのはシルバーのライターだけだ。しかし、不思議と焦りはなかった。

 青月は螺旋階段に向かって歩き出す。孤月も何となく、それに倣った。

「なんだか良く寝ていた気がするよ。どれくらい寝ていたんだろうな?」

「現実世界の時間感覚でいうと、三日くらいでしょうか」

「三日? そんな馬鹿な」

「ここにいるとよくある事ですよ。ここと現実はあんまり関係ないと言えば無いですから」

 青月の抱える本が大きく揺れるが、青月は慌てもしない。力持ちだな、と孤月は呟いた。

「だからって、自分探しをサボっちゃだめですよ。次回から無月さんのカウンセリングも始まりますし」

「カウンセリング?」

 また怪しそうな、とは続けなかった。

「はい。あ、階段。気をつけてくださいね」

「青月こそ。――力持ちだな、本当に」

 えへへ、と笑う青月。

 孤月は階段を降りる。段々と近付く複数の話し声に首を傾げつつ、青月と何でも無い談笑を楽しむ。

 ――そして、一階に降り立った時だった。

 みしり、と書架が揺れる。青月は前に倒れそうになり、本は床に散らばった。孤月は辛うじて青月の腕を掴んだ。

「大丈夫? 地震か」

「ありがとうございます、大丈夫です。強めに扉が開いたんだと思います」

 青月が指を指すと、孤月が最初に通ったドアが開放されていた。そこを通って、ぼんやりとした人たちが入ってくる。

「たまに、あの扉からアクセス権が無い人がやってくるんです。でもこの感じ、誰か来ますね」

「誰か?」

 青月が控えめに手を叩くと、床に散らばった本がす、と浮いた。

「あの人ですね」

 妙にはっきりと、明らかに表情を持った人間が歩を進めている。

 その人物が中に入り切ると、扉は静かに閉まった。

「なんか知らん奴にここに送り込まれたんだけど。何ここ?」

 気が強そうな声色に、孤月は不快感を覚える。

 青月は小さく声を上げた。

「きょ、今日新しい方が入る予定はないはず……。無月さんから聞いてないし……」

「ねえ、あんた! ここはどこなの? 私はどうしたの?」

「え、ええと」

 青褪める青月に向かって、ずかずかと歩いてくる。

 女のようだった。きつい香水ときっと上がった眉が棘のようだ。

 圧倒された青月は固まり、言葉も出ないようだった。孤月はそれを庇い、前に出る。

「あんたこそ何? こんな場所でいきなりキーキーうるさいよ。少しは周り見ろよ、ここは図書館だぞ?」

「はあ? 何よあんた、あんた、えっ?」

 女が怒りを戸惑いに変え、孤月をまじまじと見る。それが恐怖に変わるまで、すぐだった。

 女は悲鳴を上げ、扉の方へ走った。巨大な壁と化した扉に縋り付き、開けようとするがびくともしないようだった。

 孤月は自分自身を見遣ったが、シャツにスラックスの出立ちは変わらない。女の目はまるで人殺しを見るような目だった。

「助けて! 助けて! 誰か、助けて!」

 完全にパニック状態に陥った女が、半狂乱になりながら叫ぶ。

「業が深過ぎるのか」

 孤月が呆然としていると、青月が小声で呟いいた。

「何事です?」

 頭上から声がして、孤月は見上げる。

 螺旋階段を降りてくるのは、無月だった。スキニーにカーディガンというラフな格好で、眉を顰めている。

 胸が騒つくが、それよりも女だ。あの女を黙らせなければならない。

 無月は青月と孤月の側を通り、女の方へ真っ直ぐ向かう。泣き喚く女の肩に手を置いて、何やら小声で話し掛けている。女は最初こそ驚き喚いていたが、少しすると落ち着いたようだった。無月が触れると、扉はすぐに開いて、女は出て行った。

 しん、と書架の中が静まり返る。

「お騒がせしました。もう彼女は来ません。間違えてしまったようです」

 無月はそう言うと、溜息をついて戻ってくる。孤月には声を掛けず、その後ろの青月を抱き締めた。

「今日はもう休みなさい。後はやっておきます」

「……はい」

 青月が震える声で返事をして、階段を上がっていく。孤月が声を掛けようとするのを、無月は無言で制した。

「何だよ」

「青月の事より、貴方の初カウンセリングの事です。説明しますので付いてきてください」

「はあ? あの状態の青月を放っておけって言うのかよ」

「そうです」

 無月は色も無くそう言い切った。初対面の時との違いに、孤月は面食らった。

「これ以上は時間の無駄です。行きますよ」

 無月は孤月の手を取り、さっさと歩き始める。孤月はされるがまま、手を引かれる。

 その冷たさに、孤月の背筋が凍った。まるで血が通っていないような、温かさのかけらもない皮膚。柔らかさも無い。薄っぺらのタオルのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る