『正鵠』(中)
4
「
華奢な体つきの人物に、青月は頭を下げた。
作務衣を着た、とても美しい人物だった。顔付きは女の様にも男の様に見えるが、声は男のそれだった。
「新入りさん? あたしは皓月。よろしくね」
「孤月っす。……ええと、男性かな?」
「あら、初対面で訊いてくるのね。あたしは男よ。話しやすいからこの話し方なのよ」
皓月が手を叩くと、斜向かいにあった椅子がこちらにやってくる。皓月はそれに腰掛け、肘をついた。
「無月ちゃんはまた青月ちゃんに仕事を押し付けたのね! 本当悪い子なんだから!」
「いえ、無月さんは今とても忙しくて。私が手伝えること、これくらいしか」
「全く、久し振りに来られたから挨拶してあげようかと思ったのにさ! ……で」
ちろり、と皓月が孤月を見遣ってくる。
「ここでの生活が暇だって言ったの?」
「だって、やることないんでしょー」
「あるわよ! 本を読んで知識を付けたり、ここに来る人と話して見方を養ったり。あんた、アクセス権を持てるなんてすごい事なのよ?」
「いや、ちんぷんかんぷんだよ。アクセス権だのアカシックレコードだの。昔流行ったトラックに轢かれて別世界へゴー、みたいな感じだよ」
「何言ってんの?」
皓月は形の良い目を丸くした。通じないらしい。孤月は肩を落とした。
「ここにふらっと来ているだけの人たちは、無月ちゃんから名前を貰えないの。貰った人はアクセス権って言って、ここの本を自由に読む許可を得られるのよ。ただし、いつでも来たい時に来られるってものでもないのよ。ここに来られるかどうかは、現実のあたしたちの運次第。そうね、少し違うのだけれど、明晰夢のようなイメージだといいかしら」
「明晰夢……」
「そう。夢の中でまた自由に動けたり、これは夢だと分かったり。大抵誰でも一度は経験あるけど、なかなか見られるものではないでしょ? ここはそういう感じのところなのよ。夢みたいなものだから手を叩いてイメージをしたものを出せるし、大抵のことは許されるのよ」
皓月が手を叩くと氷が入ったグラスが現れ、琥珀色の液体が満たされた。青月が目を丸くする。
「それ、ウイスキーですか? アルコールは禁止だったはずじゃ」
「誰がそんなこと決めたのよ。あたしは聞いてないわ」
皓月がグラスを煽る。白い喉が動いて、液体が一気に流れていく。
青月は血の気の無い顔を更に青くして、あわあわと言葉にならない何かを呟いている。
ぴしり、とどこかで音が鳴る。
青月が悲鳴を上げて机の下に隠れた。孤月も立ち上がり、辺りを見渡す。
近くの壁に、ひびが入っていた。皓月が構わず酒を飲むと、更に大きな音で広がる。
「皓月さん! 無月さんが下弦さんのためにアルコール禁止を決めたんです、たぶんもうルールブックに書かれています!」
「あら、しばらく来ない内にそうなっちゃったの? 嫌ねえ、本当に無月ちゃんは悪い子」
皓月が残念そうにグラスを置くと、それは弾ける様に割れた。しかし破片などは空気に溶けて、何も残らない。
何だかとんでも無いところに連れて来られてしまった。孤月は混乱する頭を押さえた。
壁に入っていたひびは、吸い込まれる様に消えた。青月もそっと顔を出す。
「孤月さん、良ければ歩いて回ってみてください。話ばかりでも疲れてしまいますし、もしかしたら無月さんに会えるかも知れないし」
また戻ってきてくださいね、と青月は机に潜り直した。皓月は不貞腐れた表情で、机をガタガタ揺らしていた。
5
青月たちが言っていることを、孤月は歩きながら頭の中でまとめる。
一。この世界はアカシックレコードの一部である。
一。無意識下でアクセスしており、自分は自分であって自分では無い。ここは夢の中のようなもの。
一。アクセス権というものを与えられると、書架の本を自由に読んでいい。
一。ここのトップは無月という女である。
それでは何故、自分はここにいるのか。
自分は誰で、誰の夢の中にいるのか。
孤月には記憶らしいものが全く無い。自身が話している内に飛び出る言葉から推察するに、比較的若い方ではないかと考えてはいるが。
気が付いたら軍服のような服装の人物が目の前にいて、「自分の事がどれくらい分かるか」と訊かれていた。そして分からないと答えると、ここに連れて来られた。
書架の中はランプの灯りで所々照らされている。それ以外は月明かりだけではあるが、不思議と暗くは無い。かなり背の高い本棚で囲まれているのにも関わらず、だ。
ぼんやりと歩いている人物たちは、本棚に目もくれずにふらふらしている。何も目的がないのは孤月も同じであったが、彼らには意思らしいものがまるで感じられない。
そういえば自分がどんな顔をしているかすら、孤月には分からなかった。本棚の隙間を縫って次のブースに行くと、やたらとごてごてした本棚たちが並んでいた。孤月が本の背表紙を見ると、ファッションや美容などの言葉が並んでいた。
その内の一つに、足元から本棚の天辺まで大きな鏡を掛けてあった。一番上を見るとネームプレートがあり、「名無しの正体」と書かれていた。
孤月はその前に立とうとした。一歩足を踏み出せば、すぐに全身が映るところまで来た。
そこで顔を上げると、遠くに無月の姿を見付けた。
あ、と声が漏れた。
無月は百冊は悠にある本に囲まれて、何かを書き記していた。表情までははっきりと判断できない。
孤月は鏡の事など忘れて、そちらに歩み出していた。
無月は書いていた物を閉じて、小脇に抱え立ち上がった。そして、目が合う。
孤月は息が出来なかった。無月という存在が、自分の中の何かを押し潰しているとさえ思った。
腹が立った。
殺してやりたいと思った。
それよりも何よりも、強く湧き出る感情に戸惑った。
もうすぐ、もうすぐ。伸ばせば手が触れる。
「孤月、どうかしましたか?」
水を打たれたようだった。孤月は我に帰り、足を止めた。
心臓が激しく跳ね回っていた。
「……無月」
「はい、どうしました? 青月と一緒のはずでは」
抱えていた本を軽く放って、無月が寄ってくる。
「来ないでくれ」
孤月は後退りして、喉から搾り出すように言った。無月は立ち止まって、孤月を不思議そうに見遣る。
「頼むから、俺に近寄らないでくれ。頼むから、頼むから」
「……青月、来られます? 孤月が動転してしまっていて」
無月は孤月から目線を外し、一歩下がった。それだけで、孤月の呼吸は楽になる。
この女は危険だ。この女を生かしておいてはいけない。やられる前にやってしまえ。
心の中にいる何者かが騒つく。孤月は座り込み、頭を抱えた。
冷や汗が止まらない。
無月は更に一歩、孤月から距離を置いた。騒ぐ何者かが少しずつ静かになる。
「大丈夫ですか?」
七メートルは離れた場所から、無月の声がした。漸く何も聞こえなくなった孤月は、恐る恐る顔を上げた。
無月の表情が理解出来ないくらいには、まだ混乱している。無月の顔部分だけ、色々な顔が混ざってスノーノイズのようになっている。
息を切らして来た青月ははっきりと認識出来ている。
「どうしたのです?」
「良く分からないのですが、私の顔を見た途端動転してしまったようで」
無月の声色に戸惑いを感じる。孤月はよろけながら立ち上がり、一歩前に出た。今度は叩き付けるような騒ぎには襲われなかったが、無月の表情は相変わらず分からないままだった。
「孤月。私が何に見えますか?」
「……分からないけど、さっきはとても危険なものに思えた。それこそ」
被害が出る前に壊さなくてはいけないくらいに、とは言えなかった。
「私が貴方にとってのトリガーになるかも知れない……。なるほど」
「無月さん、後は私が」
「ああ、そうですね。孤月もこのままでは不安でしょう。……こんな状況ですが、少し貴方のことを知れました」
無月はそう言うと、青月に何かを言って立ち去った。
6
落ち着いた孤月が青月に案内されたのは、書架の真ん中、真上に月を臨めるブースだった。
その内の一つ、どちらかと言うと黒寄りの木製の本棚の前。ネームプレートには「孤月」と書かれていた。
本は何も入っていない。これから詰めろと言いたげな空間が、疲れた孤月を責めているように感じた。
「これ、前の時はパンパンだったんですよ。本棚がはち切れちゃうんじゃないかってくらい」
青月は静かに言った。
「へえ、じゃあその本たちはどこに行ったの?」
「無月さんと二人で出したんです。色んなところに散らばってます」
書架の本棚は、と青月は続ける。
「その人の生き方、感じ方、全てが詰まっています。自分に関する答えは必ずここにあるというくらい。正鵠を射る本たちです。それを全部出しちゃうなんて事は今までした事がない。ここにはみんな答えやヒントを求めてくるのに」
「俺の事は、ここにあった本を読めば分かる……」
「無月さんがどうしてそうしたのかは分かりません。でも彼女は無駄な事はあまりしない人です。だからたぶん、それがあなたにとって必要な事なんだと思います」
それに、と青月は微笑む。痩せこけだが、愛らしい笑みだった。
「本は元の場所に戻ろうとします。だからここで過ごしている内に、勝手に戻ってきます。焦らずにゆっくりでいいんですよ」
「そうか」
孤月は力無く返した。
それでも、先程の自分の中身が気掛かりで仕方がない。無月に対しての衝動が、まだ脈打っている気がする。
それを青月に言っても、自分が自分を知らないのだから困らせてしまうだろう。言葉に含ませるには、幾分重い感情だった。
青月は頷いた。
天辺の月が、ころころと肥り出した。
青月ははっと息を呑み、少し待っていてください、と言って姿を消した。
孤月は近くの椅子に座り、ぼんやりと月を見上げた。
『月の書架』。その王が、自分を見下ろしている。青い光がしとしと降ってくる。ずぶ濡れになりそうなくらいに冷たく、柔らかい。
孤月は目を閉じて、息を吐いた。
全てを思い出して眠りに就きたい、と心の底から思った。
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