第6話 2回目の削除を考え始める1日
朝、目が覚めたときに夢は覚えていない。
目元が少し湿って枕がひんやりしていて、また夜を越えたことだけが現実だった。
通勤電車の吊革につかまりながら寝ようとしたけど、視界の端に、しっかりと子供を抱っこした親子の姿があった。
舌っ足らずな笑い声が、なぜか喉に引っかかる。
ほんの少し前まで自分もこういう未来を信じていたのに。
それ以上聞きたくなくて、音楽の音量を上げた。
会社につくと、エレベーターで同じ部署の後輩に会う。
「おはようございます」と言われて口が動かなかった。
彼女の薬指には、細い指輪が光っている。
仕事以外であんな風に私に返してくれる人が、いなくなってしまった。
気づいた瞬間、今度は喉の奥がひゅっと狭くなる。
たったそれだけのことで、言葉が出なくなってしまった。
昼休憩から業務再開のわずかな間で、
産休していた同僚が子供を連れて顔見せに来ていた。
「かわいいね、顔はパパ似だね」
「夫婦でちゃんと協力してるんだね、頑張ってね」
「マタニティフォトもよかったよ」
私が夫を亡くしてるってことを知らないはずがないのに、どうしてこんな見せつけるようなことを平気でできるんだろう。
「相手は何も悪くない、自分で気にしてるだけ」
そう何度も言い聞かせたはずなのに、今日の私は防げなかった。
仕事帰り、最寄りのスーパーに寄った。
今日の夕飯と明日の朝食用になにか…と売り場を歩いていたら、レジの列の先に、ちいさな子供を連れた家族がいた。
「パパー!これたべたいー!」
ぐずる声に、母親の笑い声がかぶさる。
また少し離れた場所で夕飯の相談をしている夫婦が目に入る。
何気ない光景に、息が詰まった。
夫が好きだったものは、まだ買うことができない。
買ってしまったら、一口も食べられずに亡くなった
あの日の後悔がまた襲ってきてしまう。
一通りまわったのに何が食べたいかもわからなくて
カゴを戻してそのまま店を出た。
夜風が妙に冷たくて、両手が空っぽなのに足取りは重かった。
家の鍵を回すと、何の音もしない部屋。
明かりをつけて、バッグを投げて、
冷蔵庫を開けたけど、食べたいものが何もなかった。
そのまま机に突っ伏して、今日のことがぐるぐると反芻する。
「私は夫を失ったことよりも、
なりたかった未来になれなかったことが悔しいんだ」
---
いつからこんなに、他人が憎らしくなったんだろう。
発言に傷ついたからやめてほしい、と
はっきり言っていたら楽になれただろうか。
優しくされると怖い。気を遣われると痛い。
私は死別してるのに他の人が幸せだなんて許せない。
気を遣われないと、それもまた悲しい。
「どこにいても、どこにもいられない」
他人の祝福を素直に祝福できない自分が、一番許せない。
それでも、どうしようもなくて。
もう、忘れたい。
今日のこの1日ごと、まるっと、削除したいくらい。
---
スマートフォンを手に取る。
あのページはブックマークに入れてある。
あの“無機質な白いページ”を、また開いた。
指が、そっと画面をなぞる。
「申請内容を記入してください」と表示された入力欄。
キーボードをゆっくりと叩く。
《夫が亡くなったあとの職場のやり取り、すべて》
《葬儀のあと、会社に戻った日から1ヶ月》
《同情と羨望が入り混じった視線》
……全部じゃなくていい。
もう誰かを責める時間も、自分を責める時間も疲れた。
少しだけ、今より軽くなりたい。
どこかで、「これを消したところで何が変わるんだろう」とも思った。
この重さに押しつぶされて歩くよりは。少しでも軽くなれたら。
「……お願いします」
送信ボタンを、押した。
その記憶は、削除されました もちぺた @mothipeta
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