【手記2】大人たちの、不気味な円滑

 生徒たちの奇妙な言葉遣いは、「若者の流行」だと自分に言い聞かせることができた。


 だが、職員室や会議室で交わされる大人たちの会話に、同じ違和感を覚えるようになって、胸には冷たい不安が広がった。


 職員室では、同僚たちが雑談を交わしている。

 声のトーンは正常で、表情も変わらない。


「先生、体育祭の備品、それ、もう準備できましたか?」

「ああ、あれはもうそこだから大丈夫だ」


 会話の「中身」が、ごっそり抜け落ちている。


 何が「それ」で、何が「あれ」なのか。

 その不気味な円滑さが怖かった。


 午後の日差しが差し込む職員室の隅で、同僚の女性教師二人が、翌月の生徒会誌のレイアウトについて話し合っている。


「ねえ、これ、来月のあれでしょ?こっち、どうする?」

「うん、あれは、そっちと繋がるから。問題ないはず」


 彼女たちの指先は、宙を不規則に彷徨い、具体的に何も指し示していない。

 しかし、二人は完璧に理解し合い、頷き、笑い合った。


 生徒会誌のテーマも、具体的な記事の内容も、レイアウトの変更点も、何一つ理解できない。

 しかし、ただの指示代名詞の羅列でありながら、その会話は完璧な設計図のように機能する。

 その光景は、人間が言葉を使わず、脳内の回路を直接同期させているかのようだった。


 そして、職員会議。

 それは、私にとって最も不気味な体験となった。


 校長が議題を読み上げる。


「……次期予算案について。あれ、承認でよろしいか?」


 誰も異を唱えない。

 数人の教師が曖昧に頷く。

 教頭は無感情に「はい、それで結構です」と答える。

 本来なら詳細な議論が必要なはずの予算案が、具体的な内容も共有されないまま、指示代名詞だけで不気味に「了承」されていく。


 私は堪らず、教師としての責任感から、口を挟んだ。


「校長先生、恐れ入りますが、『あれ』とは具体的にどの項目を指すのでしょうか? また、予算の配分については……」


 私が明確な言葉を発した途端、会議室の空気が凍り付いた。

 校長や教頭、そして他の教員たちの視線が一斉に私に突き刺さる。

 不快そうに眉をひそめ、虚ろな目で私を見つめた。

 その視線は、「新参者への冷たい拒絶」だけでなく、異質な音源に対する不快感を含んでいた。


「早乙女先生、それはあれだからね」


 校長は無感情な声で応じる。

 私の言葉が彼らには意味不明な雑音としてしか届いていないことを、痛感した。


 後日、私が作成した生徒指導案の報告書が、職員室の机に戻されていた。

 そこに、赤字の修正が、血のような不気味さで書き込まれる。


『それではあれに欠ける。これをそこに。』


 赤字を消しゴムで消そうと試みた。

 だが、消せば消すほど、私の筆跡そのものが、呪われたかのように、かすかに歪み始める錯覚に陥った。


 私の「正常な言葉」が、この学園では通用しない。

 この場所は、私の常識が及ばない、異質で抗い難い「世界そのもの」だ。


 私のペンは、その場で止まった。

 手記の文字が、書かれたまま、かすかに震える。


 (手記:2/7)

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