ある新任教師の手記
【手記1】言葉の始まり、違和感の始まり
平成xx年xx月xx日。
記録を開始する。
この記録が、私の正気を繋ぎ止める最後の綱となるだろう。
この春、念願叶って教師となり、この地方の高校に赴任した。
教育への情熱に胸を膨らませていたあの頃の私が、まさか、この学園の歪みを記録するとは、夢にも思わなかった。
この学園での日々の観察を、ここに綴る。
赴任して数週間。
最初に違和感を覚えたのは、生徒たちの言葉遣いだった。
彼らの会話には、異常なほど指示代名詞が多い気がしたのだ。
「ねえ、それってさ、昨日言ってたあれ?」
「うん、これだよ。そこに置いといたあれ。」
廊下で、昼休み中の教室で、どこからともなく聞こえる会話は、常にそんな調子だった。
私には、彼らの言葉が砂のように指の間から零れ落ち、意味を掴めない。
彼らは、具体名を挙げずに、指示代名詞だけで何の不自由もなく会話を成立させている。
私は、「最近の若者言葉かしら」「地方特有の言い回し?」と、懸命に「正常」の範疇に押し込もうとした。
他の先生方が誰も指摘しないので、そう思い込もうとしたのだ。
だが、違和感は日に日に募る。
廊下の角を曲がった時、数人の女子生徒が笑い合っていた。
「ねえねえ、今日の美術、あれだったね! ほら、あの……」
「うんうん、あれね! 私もこれ、絶対あれだって思った!」
楽しそうな声だが、耳には、奇妙な不協和音が響く。
彼女たちは、具体的な作品名も、感想も、何一つ言葉にしない。
ただ「あれ」「これ」「それ」を繰り返すだけ。
しかし、彼女たちの顔は心から楽しそうで、私には、その「感情」と「言葉」の間に、深い溝が走っている。
言葉の隙間から、感情だけが切り離され、音もなくどこかへ吸い取られる。
その虚無感が、心臓を冷たく掴んだ。
別の男子生徒は、友達とゲームの話をしている。
「昨日さ、あのゲームのそれ、やった?」と尋ねると、「うん、あれね! あれがさ、すっごくあれで!」と、両手を広げて興奮した様子だ。
彼らの表情は豊かだが、その言葉には、ゲームのタイトルも、登場人物も、具体的な展開も、何も含まれない。
彼らは互いに頷き、完全に理解し合っている。
私には、その「理解」が、言葉を介さない、テレパシーのような不気味な一体感に見えた。
その不気味さに、皮膚が粟立った。
彼らが具体名を挙げずに指示代名詞だけで会話を成立させていながら、その言葉の背後に意味の空白が広がっていることを肌で感じていた。
彼らが指し示す「それ」が、私には全く別の「あれ」に聞こえる。
生徒同士は頷き合っているのに、彼らが何を「理解」し合っているのか、その「理解の概念」そのものが、想像の及ばない領域へと歪んでいる。
この学園の生徒たちは、何か奇妙な「秘密」を共有しているようだった。
教師として、その「秘密」に踏み込めない。
彼らを導くこともできない。
そんな深い困惑と無力感が、胸に重くのしかかり始めた。
筆致が、わずかに、整然としたものから逸れていく気がした。
(手記:1/7)
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