第1話

 とある国に『十二主家じゅうにしゅけ』と呼ばれる名家の存在があった。其の名の通り、十二の家柄が国を統治し、発展に従事していた。民の支持も厚く、温和で親しみ易いのもあり、一度ひとたび街に赴こうものなら、人集りが出来る事もしばしば起こっていた。


 其の主家の一角が居住する、とある住宅街で少女が一人で街を歩いて居た。少女の名は『美和みわ』とある理由から、地図を頼りに家探しに歩いて居た。


 ―時は遡る事、数時間前―


 住宅街の中にある居住の一室での出来事。美和は其の家で、母と二人暮しだった。父は『自分が産まれる前に、ある仕事で遠い所に行っている』と、母から伝え聞いて居た。

「ママ!えほんよんで!」

「良いわよ。どれを読んで欲しいの?」

 美和は何時も通り、母に本の読み聞かせをせがんでいた。

「えっとね、えっとね…」

 だが其の日は、何時もとは違かった。美和の住む家の近くに車が止まるエンジン音が聴こえて来たのだ。普段なら気にも止めないのだが、母は違った。母は何年か前から、何かに怯える表情をする様になった。電話口でも苛立った様な口調になる事もあり、其の度『大丈夫…大丈夫よ…美和の事はママが守るから…』我が子を強く抱き締めながら、自分に言い聞かせるかの様に呟いて居た。


「…ママ…だれかきたの…?」

「………」

 母は無言で、カーテンの隙間から外を覗いた途端、顔を強ばらせた。だが其れも一瞬の事で、美和の肩を掴み言い聞かせる様に話し掛けた。

「…御免ね美和。ママにお客さんが来たみたいだから絵本読めなくなったわ」

「おきゃくさんかえったら、えほんよめる?」

 美和の問い掛けに、一瞬泣きそうな表情をした母だったが、直ぐに首を振り我が子の髪を撫でながら話を続けた。

「…美和…お客さんが帰る迄…家の中が静かになって車が遠くに行く迄、この部屋から出ちゃ駄目」

「…どうして?」

「ママのお客さんに、美和を見せたくないの。だって、こんなに可愛いもの。美和が危ない目にあったら、ママ泣いちゃう」

「……!!ママないちゃやだ!!みわ、いいこにしてる!!」

「…有難う美和、私の可愛い子……約束して、もしママに何かあったら、このリュックを持って、ママと一緒に歩いて教えた家に向かいなさい。決して、知らない人に付いて行ったり、見つかったりしたら駄目。ママとの約束守れる?」

「…うん…みわ、まもれる」

 少し涙声になりながらも、美和は大好きな母の腕の中で頷いた。

「愛してるわ、美和…ママのお客さんが帰る迄、お布団の中で耳を塞いで待っててね」

 そう言って母は、優しく布団を被せ部屋を後にした。一人残された美和は、大好きな母との約束を守る為、客がこの家から居なくなる迄、声を押し殺して静かに泣き崩れた…―


 ―…時間にして、数分か其れとも数時間が経過しただろうか。静まり返った家の中で、美和が泣き腫らした目元を擦りながら布団から這い出した。

「…………」

 そして、大好きな母に渡されたリュックを背負い、静かに部屋から抜け出した。

『もしもの事等起きて居ない』―其の事に一類の望みを掛けて…―


 ―…だが、現実は無情だった。一階に降りた美和が見たモノは、血痕で赤黒く染まった部屋の中で、床に倒れ付し事切れた母の亡骸だった。立ち尽くした美和は、静かに泣き崩れた。

「…………っ!!!!」

 これが、大好きな母の言った『もしもの事』なのだと、美和は混乱する頭で理解した。だが、現実を受け入れられなかった。何故、大好きな母がこんな事態に陥ったのか。『何故?』『何故?』『何故?』其ればかりが頭を占めた…―


 ―…美和…ママとの約束、守れる?


 ―…其の時、大好きな母の言葉が頭に響き渡った。

(………うん…みわ、まもれる…)

 其れを聴いた美和は、泣き腫らした顔を上げ、大好きな母に静かに別れを告げ、裏口から家を飛び出した。そこからは、母の言い付け通り、誰にも見付から無い様に、教えて貰った家に向かって歩き出した。

(…ママ……ママ…っ)

 溢れ出す涙を乱暴に袖口で拭いながら、リュックから取り出した地図と記憶を頼りに、覚束無い足取りで住宅街の裏路地を歩き続けた。

 そんな美和の頭上で、先程迄晴れ渡って居た空が次第に雲で覆われ、雨が降り注ぎ始めた。

「………あめ…?」

 小雨程度だったものが、次第に雨脚を強くして行った。少女は、土砂降りの様な雨脚の中、気を急いでいた。何故なら、大好きな母に教えて貰った家に、未だに到着して居なかったからだ。其の上、雨で地図が意味を無さず、街灯だけの暗くなった外では家の判断が出来なかった。

(……ママ……おうち…いけないよ…っ)

 長時間雨に晒されたせいで全身ずぶ濡れになり、更には歩き疲れた疲労で、少女は膝を抱え蹲った…―


 ―…どれだけ、そんな状態だったのだろうか。美和の近くに車が止まる音がした。そして、車外に出て美和に向かって駆け寄って来る足音に気付き顔を上げ様とした。だが、其れは叶わなかった。

「………っ?!!」

「…こんな雨の中、外に出て何をしている?!」

 駆け寄って来た人物―彼に、上着を被せられたからだ。美和は混乱し、其の場から逃げようとしたが、上着を被せた彼に寄って抱き抱えられて締まった。

「…すまない、怖がらせて締まったな。だが、このままでは風邪を引いてしまう。事情を聞きたい所だが…一先ず、私の屋敷に向かうとしよう。」

 美和を抱き抱えた彼は、これ以上怯えない様に優しく語り掛けながら、自身の屋敷に足を向け歩き出した。其の後を、誰かが話し掛けながら追い掛け来た。其の内容を、美和は理解しようとしたが、彼の腕の中が大好きな母と同じ様に心地好くて、其れ所ではなかった…―


 ―…とある住宅街にある豪勢な屋敷の中では、使用人達が慌しく廊下を行き来していた。急遽、この屋敷の主が道端で幼子を保護したからだ。

(…全く、親父殿おやじどのは人が良過ぎる。だが、そんな所も良い!!!!)

 そんな中、屋敷の主の敬愛が表に出ない様に険しい表情をしている人物が一人。其の名は『紗々羅ささら』。かつて、屋敷の主に人身を救われた人物の一人である。詳しい詳細は省くが、この屋敷で働く人物の大半が、施設育ちの孤児達ばかりなのである。『身寄りの無い子』や、『育児放棄で捨てられた子』等、様々な理由で孤児となった子に対して仕事の斡旋等を行って居るのが、彼等が勤める屋敷の主なのである。


「只今戻った。俺が居ない間、何も問題は無かったか?」

「お帰りなさいませ、親父殿。特には有りませんが…其の格好のままでは、親父殿が風邪を引かれます。湯の準備が出来ておりますので、先に其方からお願いします」

 全身ずぶ濡れで何かを抱え帰宅した主に、出迎えた紗々羅は水気を含んだ上着を受け取りながら、大きめのタオルを渡して湯の催促をした。だが、タオルを受け取った主は、腕に抱えて居たもの―幼子をタオルに包み玄関床に座らせ、片膝を付き素早く靴を脱がし始めた。

「さぁ…もう大丈夫だから、安心しなさい。これから湯に浸かって、冷えた身体を暖め無くては、風邪を引いてしまう―」

「………」

 そして、タオルで優しく拭きながら幼子の顔を見た瞬間、言葉を詰まらせた。だが、幼子の泣き腫らした目元を見て何かを察し、表情を曇らせた。

「………親父殿?どうしました?」

「―…嗚呼、否…何でもない。リュックはこちらが預かっても良いか?濡れてるから、乾かしておこう」

 だが、訝しんだ紗々羅の言葉に我に返り、幼子が唯一所持していたリュックを軽く拭き、紗々羅に預けた。

「さぁ、湯に浸かって身体を暖めようか。紗々羅、この子の着替えと…後、食事と薬の用意をして置いてくれ」

「分かりました」

 寒さで身体を震わす幼子をタオルで包み、腕に抱き抱えた。そして、手早く指示を飛ばし風呂場に歩を進めた。

(……親父殿、其の子は一体…否、今は仕事が先だ…)

 其の後ろ姿を紗々羅は思い詰めた表情で見詰めて居たが、直ぐに頭を振り仕事に取り掛かった。


「……熱くは無いか?」

「…………うん…」

 大人数が入浴しても余裕のある木造で造られた浴槽では、幼子が膝の上に座り湯に浸かって居た。溺れるのを防ぐ意味合いもあるのだが、何故だか『離れたくない』と言う感情が思考を締めていた。其の為、抱き着いて中々剥がれず、服を脱がすのも時間を要したのだ。

(……矢張り…この子の母親は…私の…)

 度々、顔を見上げてくる幼子の髪を梳きながら、彼は物思いにふけた。思い出すのは、自身の妻…そして、結婚して家を出た娘の事。最愛の妻を早くに亡くし、忘れ形見となった唯一の血縁。何の因果か、ある家柄の部下と良縁を結び結婚した娘。だけど、結婚しても父親大好きなのは相変わらずだった。

 度々、電話で連絡を取り合っては取り留めの無い会話を繰り返し、長電話になる事もしばしば。だが、娘が例の彼と元気に過ごして居るのなら、この結婚も悪くなかったのだと…そう思っていたのだ。娘との連絡頻度が、急激に減る迄は…―


 ―…深い思考の中に浸かって居た其の時、彼は何かに頬を叩かれる感覚で現実に戻った。少し不機嫌な表情をした幼子が、小さな手で頬を叩いて居たのだ。構って貰えなかったせいなのか、頬を叩くのを一行に止める気配が無かった。大した痛みは無いのだが、湯に浸かって居た事を思い出した彼は、未だに叩くのを止めない幼子の手を掴み優しく語り掛けた。

「…無視してすまないな。少し、考え事をしていたんだ。さぁ、逆上せるから湯から出ような。食事も用意してあるから、一緒に食べようか」

「……ごはん…?」

「嗚呼、お腹空いてるだろ?」

「………うん…おなか、すいた…」

『食事』と言う単語に反応して控えめにお腹を鳴らした幼子は、少し火照った顔を俯かせ頷いた。そして、顔を隠す様に首元に力強く抱き着いた。そんな可愛いらしい反応をする幼子に頬を緩め、食事をする為着替えるべく、幼子を抱え湯から上がった。


 着替える時にも一悶着有りつつ、食事の席に着いたのだが、幼子が見た事ない様な品数が食卓に並んで居た。一緒に食事をする彼の分だろうか、和食で統一された食器の中には、魚料理をメインに、小鉢には野菜を中心とした副菜の数々。汁物に至っては具材は少ない割に出汁の良い香りが漂い、幼子の食欲を刺激した。対して、幼子の分の食器は、出汁の良い香りが漂うシンプルな粥だけだった。少し不満気な表情をして見上げていたら、気付いた彼に、困り顔で髪を梳きながら優しく語り掛けた。

「そんな、不満気な顔をするな。只でさえ、雨の中長時間外に居たんだ。風邪を引いてるかも知れないだろう?だから、元気になる迄我慢出来るな?」

「…………うん…」

「…良い子だ。さぁ、食べようか。熱いから、気を付けて食べなさい。ゆっくりで良いからな」

「……ん」

 幼子は余程お腹が空いて居たのか、拙い匙の使い方で粥を冷ましながら口に運んでいた。其れを隣で見ながら、彼も食事を始めた。


 食後の茶を嗜みながら休憩していると、隣から唸り声がした。隣を見やると、幼子がお腹を擦りながら、食器に残る粥を見詰めていた。満腹になったのだろ。残して締まった食事をどうしようかと悩んでる様子だった。そんな幼子を背中から抱き抱え、膝の上で横抱きにし優しく髪を梳きながら語り掛けた。

「…沢山、食べたか?」

「……うん…でも、ごはん…のこしちゃった…」

「残しても構わない。無理して全部食べる必要はない。食べられる分だけ食べれば良い」

「……いいの…?」

「嗚呼、食べ過ぎてお腹痛くなったら嫌だろう?」

「…うん」

「其れに、無理して大人の真似をする必要は無い。少しずつ成長して行くと良い」

「………?」

 だが、話の途中から首を傾げ出した幼子に、彼は笑いを抑えながら肩を震わせた。

「…っ…すまない、少し難しかったな。早く、大人にならなくて良いと言ったんだ」

「…………??」

 然し、幼子はまたも理解出来ないと言う様に、首を傾げるだけだった。

(…早く大人になる必要は無い。ゆっくり、成長して行けば良い…)

 そんな様子に彼は頬を緩めて居たが、不意に真剣な表情で幼子の手を握り、少し言葉に詰まりながら語り掛けた。

「……少し、聞きたい事が有るのだが…何故、こんな雨の中、外に居たのか…聞かせてくれないか?ゆっくりで良い。分かる事だけで良いんだ…」

「………っ…えっと…その…」

 彼の言葉に、幼子は言葉を詰まらせながらもたどたどしく話始め様とした。だが其の時、二人の会話を遮る者が一人…―


「…会談中、失礼致します。親父殿、これを見て頂きたいのですが…」

「……どうした、紗々羅」

「其の子が所持して居たリュックに、これが入って居りまして…これって…」

「―………」

 会話を遮った事に、少し申し訳無さそうな表情をしながら、紗々羅が幼子が所持していたリュックの中身を彼に手渡した。其の物を見た彼は、一瞬目を見開居たものの、紗々羅に手渡された物―ペンダントの中に納められて居る写真を、懐かしそうに目を細め見詰めた。そして、ペンダントを幼子に見せながら再度話し掛けた。

「……君のママが、これを持たせてくれたのか?」

「…うん…ママにおしえてもらった、おうちのひとにね、これをみせたら、たすけてくれるって、ママいってたの」

「……そうか…矢張り、君は…私の…」

 幼子は、ペンダントを見ると少し寂しげに語気を弱め、薄ら涙を浮かべて母の教えを呟いた。其れを聞いた彼は、思い詰めた表情をしながら、聞き取れるか否かの小声で呟いた。

「………?」

「……親父殿、其の子は…あの…」

 そんな彼の様子に、幼子は首を傾げ、傍で待機して居た紗々羅は困惑した表情で問い掛けた。だが其れは、僅か数分の事で、何事も無かったかの様に彼は表情を正した。

「…紗々羅、部屋に皆を集めて来れ。大事な話がある」

「…分かりました、直ちに」

 そして、傍で待機して居た紗々羅に命を下し部屋を下がらせた。其れに紗々羅は、神妙な表情で居住まいを正し頷き、部屋を後にした。

「…今日はもう疲れただろう?遅い時間だから、もうお休みすると良い」

「………うん……」

 其れを見送った彼は、横抱きにした幼子を抱き締め、眠る様あやし始めた。其れに幼子は、何故か抗い難い感覚が芽生え、次第に重くなる瞼に逆らえず、小さな寝息を立て眠りに落ちた。眠った事を確認した彼は、眠る幼子を抱え部屋を出て、かつて彼の娘が使用して居た部屋のベットに寝かし付けた。

「……ゆっくり休むと良い…私の…―」

 そして、スヤスヤと眠る幼子の額に口付けを落とし、部屋を後にした。


「あっ…親父殿、皆部屋に集まって居ります」

「…嗚呼、分かった」

 幼子を寝かした部屋を後にした彼は、食事部屋から居なくなった主を探し歩いて居た紗々羅と合流した。そして、屋敷に勤める皆が待機する部屋の上座に座り重い口を開いた。

「…さて、色々と聞きたい奴も有るかと思う。私が、急遽連れて来た子の事……私も確証は無かったが、あの子の面影と所持品を見て確信に変わった」

「……其れは、詰まり…」

 紗々羅の神妙な問い掛けに、彼は顔を曇らせ話を続けた。

「……あの子は、私の娘……『美咲みさき』の娘……詰まり、私の孫娘だ…」

「………っ!!美咲様の御娘おこが、何故一人でこの屋敷に……っ!!!!」

「…其れは、分からん…だが、美咲の身に不足の事態が起きた事は明白。自身の命寄りも、我が子を守ろうとした結果が、私の所に向かわせる事だったのだろう…」

「……そんな…っ!!」

 淡々と自身の娘の事態を話す主に、皆思う事は有った。だが、この屋敷の中で一番に辛いのは、主と其の孫だと言う事。こんな会合等、直ぐに投げ打ってでも娘の元に向かいたい筈だ。だが、屋敷の主としての矜恃が、彼を留まらせて居たのだ。其の事を、十二分に理解している紗々羅や、他部下一同の心中は一つになって居た。

「…親父殿、御命令を。我等、屋敷に勤める臣下一同、美咲様の仇の手伝い。そして、美咲様を母様の眠る御所に埋葬したい所存」

 そして、紗々羅を筆頭に主に口頭をした。其れに、彼は呆れた様に溜息を着いた。

「……お前達……どうせ、制ししても聞かないんだろうな。……何時から、聴き分けの無い子になったのか…」

「其れは親父殿が、我等をもう少し頼って下されば良いだけの話です。御一人で、何でもこなそうとする度に、彼等は気が気では無いのです。何せ親父殿は、我等の主にして『子津家ねづけ当主』…『子津克己ねづかつみ』様なのですから」

「………」


 この国には『十二主家』と呼ばれる名家の存在があった。其の主家の一つが『子津家』と呼ばれる名家であり、紗々羅達が暮らす屋敷がそうだ。そして『子津家唯一の当主』であり、『唯一無二の主』と慕う人物。そう、彼こそがこの『子津家唯一の血統者』であったのだ。だが、何故彼が『唯一の血統者』等と言われているかは、また何処かの機会に語るとしよう。


 紗々羅の苦言に、苦虫を噛み潰した様な表情をした克己は、またも溜息を付いた。紗々羅の苦言も理解出来る。だが、年若い彼等の未来の為にも、年老いた己が前線で事に当たる事に苦は無かった。

(何せ、我が子津家一族は皆『』なのだから…―)


 ―…一方其の頃、部屋で寝て居た筈の幼子は、布団から這い出して居た。

「………いない…なんで……っ」

 夢の中で幼子は、大好きな母の腕の中で眠って居た筈なのに、目を覚ましたら知らない匂いと知らない場所で寝て居たからだ。半泣き状態で部屋を抜け出した幼子は、屋敷の住人に見付からぬ様、廊下を動き回って居た。そして、屋敷の最奥にある部屋の手前で歩を止めた。何故なら其処に居たのは、母と同じ様に安心する人が居たからだ。幼子は一瞬だけ躊躇したが、其の人目掛けて駆け出した。すると、其の人は初めから幼子が来る事を予知して居たかの様に、駆けて来る幼子に視線を向けた。そして、抱き着いて来た幼子を、悠々と抱き留め、膝の上に座らせた。

「…どうした、怖い夢でも見たのか?」

「……ママに……あいたい……ママ…どこ……っ」

「…………そうだな…ママに、会いたいよな…」

 幼子の悲痛な言葉に、彼は只、幼子を抱き抱える事しか出来なかった。何せ、彼自身も娘の元へと駆け付けたい衝動を抑えるのに必死だったからだ。だが、ふと有る事を思い出し、涙ぐむ幼子の目元を拭いながら語り掛けた。

「……そう言えば…まだ名を聞いて無かったな…教えてくれないか?」

「…………みわ…」

「…みわ……そうか、美和と言うのか…」


 ―…あのね、お父さん…私に子供が出来た時の為に、名前を付けて欲しいの…


 其の名を聞いた時、不意にかつて娘とした会話を克己は思い出していた。


 ―………子の名前…?普通は夫婦で話し合って決めるものだろう…


 ―…だって……余り、しっくり来るものが無くて……其れに、お父さんの孫娘になる子だもん。お父さんに、名前付けて欲しくて…


 ―…美咲が良くても、彼は了承して居るのか?


 ―…うん!!彼も、お父さんが付けて来れた名前なら、凄く嬉しいって言ってたよ!!


 ―……お前達は………まぁ、良い……子の名ね……


 嬉々として、自身の子の名付けを頼む娘に若干呆れつつ、何時産まれるかも分からない孫の為に思考をフル回転した。そして、不意に湧いた名を呟いて居た。


 ―…………『美和』……女の子なら『美和』…男の子なら『みのる』……


 ―……『美和』と『稔』…良い名前……うん、産まれて来る子にぴったり…


 其れを聞いた娘も、嬉しそうに何度も頷いた。そして、大好きな父の首元に抱き着いた。其れに、克己は何を言うでも無く、抱き着く娘の髪を梳いた。


 ―…有難う、お父さん……大好き…


 ―………嗚呼、知ってる…


 ―…在りし日の懐しい記憶を思い出し、克己は目元に涙を滲ませた。其れを見た美和は、驚きの余り涙が止まり、涙を滲ませる克己の目元に手を伸ばした。

「みわが、なかしたの??ごめんさいするよ??」

「………っ……すまない、大丈夫だ…美和のせいじゃ無い…少し、昔の事を思い出して居ただけだ…」

「……むかし?」

「…そう……昔の事……美和のママの事、私は良く知って居るからね…思い出して締まったんだ…」

 娘との思い出を噛み締めながら、克己は美和の頬を優しく包み込んだ。

「…ママのこと?しってるの?」

「…嗚呼、良く知って居る……本当に、美和はママに良く似て居る」

「ママに?みわ、にてるの?」

 母に似て居ると言う事を余り理解して居ない美和の反応に、克己は噛み締める様に言い聞かせた。

「嗚呼、美和はママに良く似て居る。私に抱き着いて甘えて来る所も、何気無い表情や行動一つでさえ……あの子の面影を、私は美和に重ねて仕舞う…」

「……」

「………すまない、少し難しかったな……部屋に戻ってお休み―」

「―…じぃじ……?」

 然し、不意に我に返り、克己は美和を寝かせる為、部屋に連れて行こうとしたが、美和の呟きに動きを止めた。そして、何か言葉を紡ごうと口を開いたが上手く行かなかった。だが、上手く言葉を紡げぬ口で、何とか声を振り絞り、美和に語り掛けた。

「…………っ……誰から………私が美和の…じぃじだと……聞いた……っ?」

「……ママが…みわのじぃじのこと、いっぱい、はなしてくれた。じぃじのうでのなか、ママとおなじで、あったかいの。みわのあたま、なでるの、ママといっしょで、やさしいの。ママ、じぃじのこと、だいすき、みわもじぃじのこと、だいすきなる、いってた」

「……………」

「みわのじぃじ、ママやさしい、いってた。だから、みわね、じぃじあいたい、おもってた。じぃじ、あってる??」

 娘が紡いだ美和の健気な思いに、克己はとうとう耐え切れ無くなり、美和を力強く抱き締めた。

「…………っ、嗚呼……そうだ……私が、美和のじぃじだ……逢いに行けなくて……すまないっ、すまないな……っ」

「……っ、じぃじ………じぃじ…っ、」

 克己の言葉を聞いた美和は、遂に耐え切れ無くなり、抱き締める腕の中で泣き声を上げた。其れを、克己は只、泣きじゃくる美和を抱き締める事しか出来なかった。

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