第3話 かくれんぼ

 翌日から、愛莉は口癖のように「来週の江の島、超楽しみだね~!」と言うようになった。正直言って俺はあまり乗り気ではなかった。インドア派だからだ。俺の趣味も、小説執筆や映画鑑賞やドラマ鑑賞やストリーマーの生配信の鑑賞など、自宅で完結するものしかない。

 江の島旅行に向けてテンションが上がっている愛莉に向かって、俺が、


「面倒だから、江の島なんて行かないよ」


 と言うと、愛莉は、


「最初に江の島に旅行に行きたいって言ったのは優雅じゃん! 私は江の島に行くのが超楽しみになってるんだけど! 絶対に来週行くからね! 頭が完全に江の島モードだから、私!」


 と返すのであった。

 昼間、俺が部屋でノートパソコンに向かって在宅ワークをやっている最中、愛莉は俺の背後にあるベッドに寝っ転がりながら、こう言った。


「あー、早く来週にならないかなぁ……」


 思わず俺はノートパソコンをタイピングする手を止めて、パソコンの画面を見ながら愛莉にこう言った。


「そもそも、なんで既に来週って決まってるんだ? 日程が急すぎるよ」

「別に来週でも良くない? 群馬から神奈川なんて新幹線使えばすぐじゃん」

「うん。まぁ」

「それに、優雅も江の島に旅行したいでしょ? 綺麗なビーチとか水族館とか行きたいでしょ?」

「……う、うん。行きたい」

「そうそう。自分に素直になりなよ! 私はね、優雅の彼女として、優雅の欲望や希望を全部満たしてあげたいと思ってるの」

「そっか。ありがとな」

「いいよ、お礼なんて。それより来週のいつにする? 今日が木曜日だから~、月曜日にしよっか。土日は混むし。それにB型作業所は雇用契約は結んでないから、休んでも平気だもんね。月曜に行こう」

「……」


 俺は早口の愛莉の圧に根負けした。そして愛莉の言う通り、俺の心の中に(江の島に行きたい)という気持ちがあるのも事実だった。

 正直、普段の俺なら「旅行に行く」という発想すら思い浮かばなかっただろう。しかし愛莉が俺の内なる欲望や希望を発見し、刺激し、後押ししてくれた。

 頭の中に江の島の海の光景が浮かんだ。

 俺はパソコンの画面を見ながら、無表情でこう言った。


「分かった。月曜日に江の島に行こう」

「やったー! 何泊にする?」

「一泊二日だと移動でバタバタして満足に観光できない可能性がある。二泊三日にしよう」

「意外とノリノリじゃん! お金はあるの?」

「全然ない」

「じゃあ旅費は私が出すよ」

「え? 何言ってんだ。愛莉は俺の脳内彼女だ。お金なんて持ってるわけない」

「あはは。あるんだよな~それが」

「え? ないよ、マジで」


 俺がそう言うと、しばらく間が空いて、愛莉がポツンと呟いた。


「──あっ、そうだ。ずっと優雅の部屋にいるのも悪いから、昨日、不動産屋に行ってこのアパートの空き部屋を借りといたよ。私の部屋を借りた。荷物も業者のパワーで運び終えたし、無事引っ越し完了!」


 その言葉に、俺は驚きを隠せず、思わず後ろを振り返った。

 背後にある俺のベッドの上でゴロゴロしながら、愛莉は自分のスマホを弄っている。スマホにはピンクのカバーを付けている。

 愛莉の服装も、昨日は上下グレーのスウェットだったのが、今日は女性らしいTシャツとハーフパンツになっている。

 これらはすべて俺の幻覚である。

 俺は疑問を愛莉にぶつけた。


「なぁ、なんで俺の脳内彼女が空き部屋なんて借りる必要があるんだ?」

「だって私も一応プライベートな空間欲しいし。1Kだから部屋が1個だけじゃん、このアパート。だから、さすがに同棲はちょっとね~。もし同棲するなら最低でも個室が2個欲しいところだよね~」

「……愛莉の部屋、何号室?」

「優雅の部屋の右隣だよ。昨日、不動産屋に行ったらね、たまたま空いてたの。だから速攻で内見して契約した。超ラッキー」

「愛莉の部屋、今から見に行ってもいい?」

「いいよ。お互い付き合ってるもんね。カップルでお互いの部屋を行き来できるのって良いよね」


 そう言って、愛莉は笑顔でベッドから立ち上がった。そして愛莉は部屋から出て、玄関に向かって、薄ピンクのサンダルを履いて、俺の住む●●●号室から出た。

 仕事を中断した俺も玄関でサンダルを履き、愛莉の後ろをついていく。

 もし仮に愛莉の言うように、昨日新しく契約して部屋を借りたのであれば、俺は、新しい精神疾患になっているのかもしれない。記憶がないうちに俺は不動産屋に行き、空き部屋を借りたのか……? いや、そんなはずはない。何故なら俺の記憶はずっと連続しているからだ。もちろん酒だって一切飲んでいないし、俺は空き部屋なんて絶対に借りていない。

 俺は頭が混乱している。そして恐怖心もある。


「ここが私の新しい家だよ。入って入って」


 愛莉はそう言って、玄関の扉の鍵を開けて、中へと入った。俺もそれに続く。愛莉は玄関でサンダルを脱ぐ。俺も玄関でサンダルを脱ぐ。キッチンは、まだ使われた形跡がないが、フライパンや食器や洗濯機などが既に置かれている。

 やがて愛莉は部屋に続くドアを開けた。


「引っ越してすぐで、まだ部屋が段ボールだらけだけど、一応ベッドとテーブルとパソコンと冷蔵庫と電子レンジと本棚だけは置いといた。あとホームルーターも」


 愛莉は淡々とそう言う。

 俺はその部屋の光景を見て、唖然とした。言葉が出ない。俺は、いつの間に新しい部屋を契約し、こんな家具一式まで揃えたんだ……?


「え、マジでどういうこと…………?」


 立ち尽くす俺は、そう呟くことしか出来なかった。

 唖然としている俺の目を、愛莉は真剣な眼差しで見ていた。

 やがて、その真剣な表情を保ったまま、落ち着いた声音で愛莉はこう言った。


「……混乱するのも、無理はないよね……」

「え?」

「優雅、とりあえずこの部屋の合鍵を渡しておくね。いつでもこの部屋に来られるように。優雅もこのアパートと契約する時、2つ同じ鍵を貰ったでしょ? あとで片方の鍵を、私に預けてくれない? いつでも私が優雅のそばに居られるように」

「あ、うん、いいけど……。ねぇ愛莉、そんな事より俺は病気かもしれない。いつどこで俺はこんな事をしたんだ? いつ新しい部屋を契約したんだ? いつこんな家具一式揃えたんだ?」


 俺が狼狽えると、愛莉は優しい声で、こう言った。


「ちょっと一旦落ち着いて、ベッドにでも座って喋ろう」

「あ、うん……」


 俺は愛莉のベッドのへりに座った。すると、握り拳1つ分くらいの間隔を空けて、俺の右横に愛莉が座った。すると、愛莉のセミロングの髪のシャンプーの匂いがした。

 それから、1分くらい無言の時間が続いた。

 俺は、愛莉が喋り始めるのをずっと待っていた。

 “愛莉は何かを知っている”という直感があったからだ。

 俺の知らない何かを愛莉は知っている。


 ◆


 1分か2分くらいの時間が、まるで永遠のような長さに思えて、その沈黙の長さと重さに耐えかねた俺は思わずこう言った。


「暑いな。クーラーつけようぜ、愛莉」

「あ、忘れてた。ごめん。今つける」


 愛莉がテーブルの上のエアコンのリモコンのボタンを押す。

 ピッ、という音と同時にエアコンが開いて微風が吹き始めた。風は徐々に強くなり、暑い部屋を冷やしていった。

 愛莉が言葉を発するまで、どのくらいの時間待ったのかは分からない。3分かもしれないし、30分かもしれない。

 ふいに、愛莉は何気ない口調で、


「ねぇ優雅、“解離性遁走”って知ってる?」


 とだけ言った。


「知ってるよ。解離性障害の一種だろ。昔、2ちゃんねるのコピペで読んだことがあるよ。ある日突然、自分が全く知らない土地にいて、気が付いたら数年も経過してたってやつ。その人は全く記憶が無い中で全く知らない土地で生活してたんだ。ある日、本人がそれに気付いた。その人には何年も前に家族からの捜索願が出されてて、行方不明者になってたけど、無事に家族の元に帰れた。っていう内容だった気がする。なんか怖いよな」


 俺が前を見ながら無表情でそう言うと、愛莉は俺の顔をじっと見た。

 俺も愛莉の顔をじっと見た。

 目が合う。

 距離が近くて、俺の鼻息が愛莉に触れていないか心配になる。

 その近い距離のまま、愛莉は真剣にこう言った。


「ねぇ優雅、“優雅は解離性遁走を起こしたんだよ”って言ったら驚く?」

「めっちゃ驚く」

「優雅は解離性遁走を起こしたんだよ」

「え、なんだそれ」

「あと私、脳内彼女なんかじゃないよ。私の名前は寺沢愛莉。優雅とは中学からの同級生で高校時代からずっと付き合ってた」

「いや嘘だろ」

「本当だよ。優雅の記憶が全く無いだけ。この6年間、急に消えた優雅のことを私ずっと探してたんだよ。捜索願も6年前に私が警察に出した。それでやっと優雅は群馬県のよくわからない街で見つかったの。おととい、アパートに急に警察が来て、警察署に連れていかれたでしょ?」

「……うん」

「あれは、優雅が無事に見つかったことを警察が私に連絡してくれたからなの。優雅の居所がわかったから、私は神奈川県からすぐにこのアパートに引っ越した。もう2度と優雅から離れないように」

「……」

「無事に見つかってよかった……。本当に……。6年ぶりに優雅に会えた……」


 目の前の愛莉の目から涙が流れている。でも俺は状況が呑み込めず、一切、話についていけない。


「6年……」


 俺はそう言って無表情で黙ることしか出来なかった。どうしても、愛莉の言葉が他人事のように感じてしまう。

 愛莉は泣きながら、手で涙を拭いて、こう言った。


「解離性遁走を起こした人はね、自分の人生の変化に気づかないまま、新しい土地で新しい自己同一性を形成して、新しい仕事を始めてることがあるんだって。優雅がその例だね」

「……」

「優雅は、自分が解離性遁走を起こしたことに気付いてない。ずっと気付かない方がいいのかもしれない。だって、本当のことは残酷すぎるから」

「……本当のこと?」

「うん」


『本当のことは残酷すぎる』という言葉が引っかかる。

 愛莉の言葉が正しいのであれば、俺は解離性遁走を起こした。でも、何故?

 というか、まず最初に聞きたいことがある。


「愛莉の言葉が正しいとして、俺は元々、どこに住んでたの?」

「……神奈川県の、江の島のすぐ近く」

「え」

「私と一緒に2DKのマンションで同棲してたの。優雅と私が20歳の時から、2年くらい」

「そんな記憶、全然ない……」

「そういう病気だもん。仕方ないよ。私は優雅のこと、何もかも覚えてるから大丈夫だよ」

「それもなんか怖いなぁ」

「あはは。なんかごめん」


 愛莉は泣きながら、笑った。

 俺はほんの少しだけ笑った。現実感が一切ないので、他人事に思えるが、愛莉の涙が全ての答えなのだろう。

 俺は、隣にある愛莉の小さい手をゆっくり優しく握った。その手には確かな人間の体温があり、温もりがある。

 その温もりを感じながら俺は言った。


「愛莉は、脳内彼女じゃなくて、ちゃんとした人間の彼女って事?」

「そうだよ。ちゃんとした人間の彼女! 私は優雅の設定に合わせてあげてただけ」

「マジかよ。俺、人生の中でちゃんとした彼女ができた記憶が無いんだけど、実際のところは、めっちゃ昔から愛莉と俺は付き合ってたんだ?」

「うん。めっっっちゃ昔からね! あはは」

「……これから、思い出せるかな。昔のこと」

「無理に思い出さなくてもいいよ。新しい思い出をこれから作っていけばいいだけじゃん。あと、私、嬉しかったんだ。脳内彼女っていう謎の設定だったけど、それでも私との大体の関係性とか下の名前は憶えててくれたからさ。あー私のこと完全に忘れてなくてよかったなぁって思った」

「そっか……」


 病気は病気でも、俺は解離性遁走という解離性健忘の一種だったらしい。これなら、愛莉の存在や、愛莉が新しい部屋を借りたことにも合点が行く。

 だが、俺が解離性遁走を起こした根本の原因は何なのか。愛莉なら知っているかもしれない。


「ねぇ愛莉、俺は何で解離性遁走をしたんだろう」


 俺がそう言うと、愛莉は黙った。


「どんな理由でも俺は驚かない自信があるよ。だって今のところあまり驚いてないから」


 と念を押す。すると愛莉は、こう言った。


「あくまで私の推測だけど、優雅は強いストレスを感じて、現実から逃げ出したくなったんだと思う。解離性遁走は強いストレスから逃げたい場合にも起こるから」

「……変なこと聞くけど、俺はどういうことにストレスを感じてたの?」

「優雅は5人家族だよね?」

「うん。父と母と姉と妹と俺。ここ数年は何故か誰からも連絡来ないけど」

「……優雅は6年前のお盆休みに、家族5人で旅行に行ったの、車で。その時、高速道路で優雅の家族が乗ってる車が飲酒運転の大型トラックの多重事故に巻き込まれた。それで──」

「──あ……なんか展開が読めた。もしかして、俺以外、みんな死んじゃったのか?」

「……うん」

「それで俺だけが家族で生き残って、それが辛くて、解離性遁走を発症した?」

「私は、それが原因だと思ってる」

「言われてみれば、俺は家族の顔も名前も思い出せない」

「……優雅には、もう家族がいないの。だから警察から私に連絡が来た。あと親戚とは、全く連絡がつかないらしい」

「そっか。愛莉がいてくれて、良かった」

「……大丈夫? 辛くない?」

「なんか、他人事に思えるんだ。全部。だから実感が1ミリも無いというか……」


 俺は、なんとなく、愛莉と繋いでいた手をゆっくり離した。


「私、びっくりした。昨日、優雅が江の島に行きたいって言ったの」

「深層心理では本当の故郷が分かってたのかもな」

「そうかもね」

「俺、これからどうしていったらいいんだろう?」

「それは、これから一緒に考えていこうよ」


 俺は、愛莉の充血している目を見て、あえて笑ってこう言った。


「ありがとう。6年間もずっと俺のこと探し続けてくれて」

 

 すると、愛莉は弾ける笑顔でこう言った。


「あ~、かくれんぼがやっと終わった。次は優雅が私のことを見つける番だよ!!」











 ~第4話に続く~

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