第2話 選択的孤独主義者と夕暮れ

 それからしばらくの間、愛莉は何も言わずに微笑みながら、俺の痛々しいタバコの火による自傷痕を撫でてくれた。

 すると、心の奥の方でつっかえていた負の感情が浄化されていくような心地のいい感覚に陥った。時間の許す限り、出来れば死ぬまでずっと、愛莉に俺の自傷痕を優しく撫でてもらいたかった。

 俺が好きな映画「ファイトクラブ」で難病患者同士が自助グループで抱き合って涙を流し合うシーンがあるが、俺はそれを思い出した。

 愛莉に撫でられていると、心の闇が浄化されていく。

 夕暮れによって部屋が橙色に染め上げられていく。

 俺が無表情で自傷痕を撫でられていると、やがて愛莉は優しい声音でこう言った。


「本当は全部わかってたよ。最初から」

「え? なにが?」

「優雅、本当は何年もずっとアパートに一人ぼっちで寂しかったんでしょ? さっき、『俺はもう一人でも生きていけると思う』なんて言ってたけど、本当はただの強がりでしょ? 必死に強がってるだけで、ほんとは寂しくて寂しくて仕方ないんでしょ? ……だから、私をここに呼び出したんでしょ」


 その言葉を聞いて、俺は否定も肯定もせず、ただ涙を流した。やがて鼻水が出てきたから、俺は鼻水をすすって、流れる涙を右腕で拭いた。


「一人で頑張るのは偉いことだけど、あまり無理しないでね。優雅は、自分で思ってるほど強い人じゃないんだから」

「……うん」

「辛い時は私に頼ってよ。優雅が辛いと、私も辛いよ。だって私は優雅の脳内彼女だもん。いつも一番近くにいる人だもん」

「うん」

「この世の誰にも言えなくても、私だけには、本音で話して。……本当は辛いの?」

「……本当は、生きてるのが辛い」


 どれだけ涙を拭いても、また新しい涙が流れた。ダムの堰を切ったかのように、涙と鼻水が流れ出して、止まることを知らなかった。

 やがて、愛莉が無言で箱ティッシュを俺に渡してくれて、俺は何枚もティッシュを取り、鼻をかんだ。

 俺が今まで自覚・知覚できていなかった孤独感や寂しさを愛莉の言葉によって自覚させられた。まるで、堅牢な扉が開かれてしまったような感覚だ。今はただ、俺は涙と鼻水を流した。

 やがて愛莉はこう言った。


「もう大丈夫だよ。今は私がいるから。泣きまくっていいよ」

「ありがとう」


 それからも俺はしばらく泣いていた。

 その間も、愛莉はずっと自傷痕を撫でていてくれた。


 ◆


 しばらく泣いたら、めちゃくちゃすっきりして気分が明るくなった。

 俺は愛莉にお礼を述べた。


「ありがとう愛莉。愛莉のおかげで気分が明るくなったというか、闇が浄化された」

「泣いたらすっきりした?」

「うん」

「よかったね。でも、根本的な解決にはなってない。優雅は一人でいるのが寂しいんだよね?」

「いや全然。泣いたら全て回復した」

「ほんと?」

「うん」

「え~、ほんとは人と関わって生きたいんじゃないの~?」

「いや、マジで俺は他人とは関わらずに孤独に生きていきたいんだ」

「どうして?」

「なんかもう、心底疲れたんだ。俺が誰かを傷付けて後悔することに。俺は他人と接する才能が壊滅的に欠けてるんだ。他人を傷付けると自分も傷付くんだ。もう俺は誰も傷付けたくない。相手も、自分も。もう俺の中で他人を傷付けることは人生で一番避けたい事なんだ。だから俺は選択的孤独主義者になった」

「ふーん。詳しいことは聞かないけど、色々な事情っていうか背景があるんだね。優雅が孤独を選択してることには」

「うん。友達は最小限でいいし、人との関わりはスライスチーズみたいに薄い方がいい。俺は孤独がいい」

「うーん……。孤独を選ぶか他者との関わりを選ぶかは個人の自由だと思うよ。優雅が幸せなら私は何でもいい。この世界には色んな人が居ていいと思う。まぁ、彼女である私からしたら、優雅が選択的に孤独で居てくれることは個人的にラッキーだけどね。私が優雅のことをずっと独占できるから」

「愛莉は俺の何が好きなの?」

「全部」

「俺の全部を好きになるなんて、よっぽど男選びのセンスがないんだな。あはは」

「あー! そういうこと言う!? 他人を傷付けたくないって話はどこに行ったの? 私、普通に傷付くんだけど!」

「冗談だよ。てか、愛莉=俺だろ。愛莉は俺が生み出した脳内彼女なんだから」

「そういう冷めること言わないでよ。私は私だよ。独立した他人で、女で、28歳で優雅と同級生。しかも顔が可愛い」


 たしかに愛莉の顔はかわいい。性格もかわいい。あと、優しい。

 俺は今、この部屋で確かに愛莉の姿を見ている。

 おそらく俺の脳の神経伝達物質や何らかのホルモンが異常を起こし、幻覚や幻聴、そして幻臭や幻触といった現象を起こしているのだろう。

 俺は愛莉にまつわる全てが幻であると自覚できている。つまり病識がある。

 故に俺は今自分の身に起こっている現象に関して、緊急を要して問題視する必要がない。

 しかも愛莉は俺に危害を加えるどころか救ってくれている。

 そんな事をぼんやり考えていたら、愛莉が床に座って笑顔でこう訊ねてきた。


「ねぇ優雅。優雅は私のどんなところが好き?」

「全部」

「ふーん。私の全部を好きになるなんて、よっぽど女選びのセンスがないんだね。あははは」

「ははは。お互い様だろ」

「ねぇねぇ、しいて言えば私のどういうところが具体的に好きなの?」

「性格が可愛くて、優しくて、顔が可愛いところ」

「あはははは。正直だね」


 愛莉は嬉しそうに笑った。


「ねぇ優雅!」

「なに?」

「部屋にいるのに飽きたから、ちょっと外に出て散歩しようよ」

「えー、外めっちゃ暑いぜ?」

「でも夕暮れが綺麗だし、一日中アパートにこもってるのは健康によくないよ」

「まぁ、それもそうか。じゃあ行くか。散歩」

「うん」


 こうして散歩に行くことが決定した。


 ◆


 アパートから一歩外に出た瞬間に、熱気が俺の肌を包んだ。夏が年々暑くなっているというニュースを毎年見かける。そのうち日本の全ての地域で40℃を超えたりするようになるのではないかと思う。

 愛莉と俺はアパートの3階から階段を下り、アパートの敷地を出て、歩き始めた。

 道は二手に分かれている。右側の道を進めば、多くの店が立ち並ぶ人の多い場所に出る。左側の道は小さなお寺があり、人も少ない。

 俺は歩きながら愛莉にこう言った。


「左に進むか、愛莉」

「うん。てか私、全然この辺の土地勘ないから、優雅が案内してね」

「うん。まぁ、こっち側に行っても特に何もないけどな」

「別にいいよ、何もなくても。よく言うでしょ? 旅行はどこに行くかじゃなくて誰と行くかだって」

「旅行かー。旅行なんて、もう子供の頃以来一度も経験がないな」

「優雅はずっと引きこもりだったし友達も彼女もいなかったもんね。しょうがないよ」

「これから先も、旅行なんて一度も行くことなく俺は死んでいくんだろうな」

「じゃあ私と行けばいいじゃん。優雅はどこに行ってみたいの?」

「海に行きたい。江の島とか良いな」

「はい、じゃあ来週さっそく行こうよ江の島」

「無理だよ。作業所の仕事がある」

「A型は雇用契約を結ぶから休みづらいけど、雇用契約を結んでないB型なんて休み放題じゃん」

「まぁそうだけどさ。話が急すぎないか?」

「思い立ったら即行動。これが私のモットー。優雅にも実践してほしい。江の島に行って綺麗な海眺めて、おいしい海鮮料理いっぱい食べようよ」

「考えとくよ」

「たしか水族館も近いよ」

「ふーん」


 ちなみに俺が住んでいるのは群馬県で、江の島がある神奈川県は同じ関東地方である。

 愛莉と俺は、喋りながら、その辺を散歩した。車通りは多いが人通りは少ない。

 散歩中、愛莉が急に立ち止まった。


「ねぇ見て優雅。道端に花が一輪だけ咲いてて可愛い」

「ほんとだ。写真撮っとくか」


 俺は半ズボンのポケットからスマホを取り出して、花の写真を撮った。花弁は青い。何の種類の花なのかは知らない。

 花の写真を撮って歩き出すと、やがて道は大きく左に曲がった。

 すると、夕暮れの町が一面に広がっていた。

 俺は、ふいにこう呟いた。


「夕暮れを見てると、THE BACK HORNってバンドの『夕暮れ』って曲を思い出す」

「へぇ。私が知らないバンドだ。今度聴いてみる」

「超いい歌だよ。切なくて」

「うん。てか暑いから、そろそろアパートに帰ろ。私、散歩嫌い」

「俺も散歩嫌い」

「じゃあなんで散歩してるの?」

「さぁ」

「私が散歩したいって言ったからでしょ。あはは」


 俺たちは来た道を引き返して、アパートへと歩を進めて、帰宅した。


 ◆


 アパートの室内のクーラーはつけっぱなしで外に出たので、部屋に入った瞬間の冷気が気持ちよかった。

 愛莉は、「散歩したら眠くなってきちゃった」と言って俺のベッドに横になって、すぐに寝息を立て始めた。

 俺はそんな様子を眺めて、とりあえず椅子に座り、趣味である小説執筆に取り掛かったのであった。









 ~第3話に続く~

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