第5章『闇より目覚めし王に挑む』
プロローグ 紅と黒の目覚め
夜の帳が落ちた王都に、ありえない“音”が鳴り響いた。
それは、まるで星が砕けるような、空そのものが軋むような――現実のものとは思えない、異界の鐘の音。
「……これは、なに……?」
私は塔の上から、ゆっくりと顔を上げた。
紅霞の瞳に映ったのは、黒い、空。
いや、“黒が這ってくる”と言った方が近かった。
「リディア様っ! 避難をっ!」
副騎士団長のルーファスが駆け寄ってくる。
彼の顔には、これまで何度も見たことのある“戦いの気配”……だが今回は、違った。
彼の眼差しに宿っていたのは、“怯え”だった。
「空が、裂けてる……?」
王都の中心、精霊宮殿の真上。
空間が、ぽっかりと穴を開けたように歪み、その裂け目から、黒い“翼”が現れた。
それは鳥のようで、竜のようで、どこか人間の背に似ていた。
「魔族……いや、違う……あれは、」
隣に立ったセリアが、震える声で言った。
「……精霊ですら、近づけない“闇”です……っ」
次の瞬間、風が止まり、音が消えた。
精霊の声が――聞こえない。
「……フィーネ?」
心の中で呼びかけても、返事はなかった。
その事実が、私の背筋を凍らせた。
「リディア様、下がってください! あれは……!」
ルーファスが剣を抜いた。だが、彼の手が僅かに震えていた。
“あれ”は、ゆっくりと翼を広げ、王都の上空を覆った。
その姿は、黒い王冠を戴いた男のようでもあり、獣のようでもあった。
《――我ハ、虚無の王ヴァルディア。還リ来タリ。》
言葉ではない、直接頭に響くような意識の波が王都中に拡がった。
それは理性すら溶かしてしまいそうな、“存在そのものが毒”のような気配だった。
「精霊の……王?」
私は言葉を失った。
その名は、かつて古文書の片隅で一度だけ見たことがある。
“最初の契約精霊”――そして、神に背き、精霊たちを喰らった存在。
「……そんな、冗談でしょう?」
だけど、目の前の光景は、幻想でも幻影でもない。
《ヴァルディア》と名乗った“それ”は、黒い炎を纏いながら、地上に向けてゆっくりと手を伸ばした。
「……避難命令を! 王都民すべてに、今すぐ!」
私の声が震えていたのか、叫んでいたのか、自分でもわからない。
ルーファスがすぐに指揮を執る。
騎士団が動き出し、空には転送陣の輝き――だが、すぐに消えた。
「……魔導障壁が、通じない……!?」
「結界術が、霧散していきますっ!」
騎士たちの報告が次々と届く。
“虚無”は、ただ“存在する”だけで、この世界のルールすら侵していく。
「フィーネ……どこ……? ねぇ……」
心で何度も呼んでも、彼女は答えない。
私の中の“精霊契約”が、まるで軋むように、何かに耐えていた。
(怖い)
私は、気づいてしまった。
ルーファスがいても、セリアがいても、今だけは――
“誰にも頼れない”恐怖に、私は一人、飲み込まれそうになっていた。
「リディア様……!」
「……逃げないわ」
小さく、でも確かに口にした。
逃げてしまったら、王都が、みんなが、滅んでしまう。
「フィーネがいないなら、私が呼ぶわ。あなたの力じゃない、“私の意思”で――!」
ヴァルディアの目が、こちらを見た。
赤く、深く、覗き込むような眼差し。
それは、すべてを見透かして、なお、嗤っていた。
《オマエモ、ソノ“愛”モ、虚無ニ帰スベキカ――》
「……帰させるものですかっ!」
私は杖を掲げ、最後の魔力を絞り出すように呪文を詠んだ。
セリアが光の結界を張る。
ルーファスが前へ出て剣を構える。
そして――空が、音もなく“割れた”。
そこから降り注いだのは、黒い霧。
魔族でも瘴気でもない、“理”を壊す闇。
「全員退避! 防衛線を――!」
誰かの叫びが聞こえた。
でも私はもう、それに応える暇もなく、ただ、
――“あれ”と目を合わせていた。
“愛”も、“誓い”も、“希望”すら飲み込むその存在に、
私の心がどこまで抗えるのか――
問われている気がした。
(私が、負ければ)
(すべてが、終わる)
でも。
(それでも)
私は――
「わたくしは、“悪役令嬢”なんかじゃありませんわ。誰も守れない“姫”でもない」
「この手で、守ってみせます。世界も、あなたたちも、わたくしの“居場所”も――!」
その瞬間、黒と紅の光が交差した。
――“はじまり”は、ここから。
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