エピローグ 「わたくしの手は、誰かのためにあるのなら」
王都の空に、紅の光が昇っていた。
それは燃え盛る戦火の炎ではなく――誰かの“祈り”と“願い”が、天へと昇華した証。
あの日、神殿で交わされた精霊との契約。
重なった心、交わした誓い。
それは“悪役令嬢”と呼ばれたわたくしの、人生そのものを塗り替えた瞬間だった。
「……紅霞の光が、空を染めたのよ」
屋敷のバルコニーで紅茶を口にしながら、セリアが微笑む。
「王都の人たちは“奇跡”って呼んでる。『精霊の花嫁が降臨した』って噂になってるわ」
「……花嫁、なんて……気恥ずかしい言葉ね」
「でも、似合ってるよ?」
そう言って笑うセリアの横で、ルーファスが黙って紅茶をすする。……不器用な人。褒め言葉の一つも出てこないくせに、視線だけはわたくしの指先にやたらと引っかかるのだから。
「……なにか言いたいことがあるなら、どうぞ」
「……そのドレス、よく似合ってると思う」
「――っ!」
わたくしはカップを落としそうになった。……どうして、こういうときに限って、真顔で口にできるのかしら。
「い、言い方ってものがあるでしょう。もっと、こう、前置きとか……その……雰囲気とか……」
「……誉めたつもりだったが」
「むぅぅ……」
セリアが笑いをこらえきれずに吹き出す。
「やっぱり、リディアとルーファスって面白いわね。お互いに素直じゃないところが、もう見ててニヤニヤしちゃう!」
「セリア、からかわないで……」
頬を押さえて視線を逸らすわたくしに、ルーファスはほんのわずか、唇の端を上げた。
まったく……もう……
けれど。
――この何気ないひとときが、どれほど愛しいか。
わたくしの手は、ずっと“役割”のためにあった。
家のため、王族のため、“悪役”としての立ち位置を演じるため。
けれど、今は違う。
「リディア様、精霊騎士団の入団希望者が続々と届いております」
「はい。すぐに応じます。……団長として」
そう。わたくしは“与えられる”だけの存在ではない。
自ら選び、掴み、誰かを守る立場にある。
「わたくしの手は、誰かのためにあるのなら……その誰かを、自分で決めるわ」
心の奥で、そう誓った。
夜が更けたころ、月影の下で静かに佇んでいたわたくしに、ふわりと風が触れる。
「……また来たのね。アレン王子」
振り返ると、やはり彼がいた。いつの間にか背後に立ち、金の狐眼でじっとわたくしを見つめていた。
「招かれざる客のつもりはないよ。……ただ、君に渡したいものがあってね」
彼の手に握られていたのは、一冊の古びた魔導書。
それは――
「……これは、“禁断契約の写本”。失われた精霊魔導の理論書……!」
「君が必要とする時が、きっと来る。だから、それを君に託すよ」
「どうして、わたくしに?」
「君が“救う人”だから。……僕では辿り着けなかった未来に、君は行ける」
アレンの瞳が一瞬だけ、哀しみの色を映す。
「リディア。君が本当に誰かを愛するとき、世界は――少しだけ優しくなるかもしれない」
「……あなたの言葉、信じるには危うすぎるわ」
「それでも、僕を覚えていてくれるなら、それでいい」
わたくしの髪を一房、そっと指先でなぞるその仕草は、まるで別れのようで――
でも、別れきれない温度を残していた。
夜が明け、神殿の鐘が王都に響き渡る。
わたくしは“騎士団”の正装を纏い、広場に集う者たちの前へと進み出た。
「この手は、もう誰かの操り糸じゃない」
精霊の冠がわたくしの頭上に揺れる。
「この手で、道を切り拓くわ。たとえ、それが茨の道でも――わたくしが選んだ未来なら」
空へと広がる紅の光。
精霊たちが舞い、七彩の羽が空に弧を描く。
やがて、それは“伝説”と呼ばれるようになる。
けれど。
その瞳はまだ、少しだけ不安げで――
そっと、誰かの手を、わたくしは探していた。
だって。
“恋する気持ち”だけは、いまだに――どうしても、ぎこちないままなのだから。
──そして物語は、“本当の恋”へと進む。
ーーーーーーーーー
そのときだった。
空が――微かに、震えた。
ほんのわずかに、だが確かに。
東の空の彼方、雲の切れ間から、禍々しい黒の“鱗光”が一閃した。
フィーネがはっと息をのむ。
『……リディア、あれは……“封印の鎖”が……ほつれてる』
「……まさか、あの存在が……」
風が止まり、空気が一瞬、重くなる。
かつて精霊王ですら封じるしかなかった、“闇の王”。
すべての魔の根源、歴史から消された“名前のない王”が――
眠りの底で、眼をひらいた。
わたくしの掌が、ふるえていた。
けれど、そっとルーファスの手が重なる。
「……行こう。お前の物語は、まだ始まったばかりだ」
わたくしは頷いた。
もう、逃げたりしない。
この手が、誰かを守れるのなら――
闇の王すら、光に変えてみせるわ。
たとえそれが、すべての始まりを覆す“真実”だったとしても。
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