「精霊王フィルグレアとの契約試練」

「――ようこそ、“鏡の座”へ」




その声は、風のように柔らかく、それでいて氷刃のように冷たかった。




わたくしとセリアの足元に広がるのは、どこまでも透き通る銀の大地。空は上下の概念を失い、無数の光の時計が浮かんでいた。時が狂い、記憶が反転する異空の空間。




「ここが……精霊王がいる場所……?」




「うん……っ、すごい……でも、少し怖い……」




セリアが震える声で呟いた。




そのとき、時計の中心に裂け目が走った。




まるでこの世界そのものが、わたくしたちを拒むように。




そこから現れたのは、形を定めない存在――光と闇、時間と記憶が編み込まれた巨大な意志。




「……あなたが、フィルグレア」




『我が名はフィルグレア。万象を見届けし、“最後の精霊王”である』




声は空間に響くが、どこからともなく直接、頭に届いた。




『契約を望む者よ。“本当の自分”を鏡に映せ』




「……本当の、わたくし?」




『偽れば、お前は砕ける。記憶も、心も。すべてを――』




世界が、反転した。




目の前の空間が崩れ落ち、音もなく色彩が消え、次に目を開けたとき。




そこは、あの場所だった。




あの、“悪夢”の始まり。




――アルヴェイン公爵家、地下の書庫。




「……っ!」




「いい子だ、リディア。今日も……力を見せてくれ」




“父”の冷たい声が響く。




気づくと、幼い自分がいた。まだ五歳にもならないわたくし。言葉では言い表せない違和感が、記憶の奥底から溢れ出す。




「父様……今日は、もう、やりたくありません……!」




「甘えるな。お前は“役目”を果たすのだ」




“父”の顔に感情はなかった。ただ、才能という名の檻を押し付ける道具としてしか、わたくしを見ていない。




――わかっていた。




けれど、子供だったわたくしは、ただ愛されたくて、認められたくて、魔法陣の中で何度も何度も、壊れながら術式を繰り返した。




「痛い……やだ……っ……誰か……!」




「誰も来ないさ。お前は、“そういう子”だからな」




それが“父”の最後の言葉だった。




その記憶の続きは、虚ろだった。




「……わたくしは、道具だったの?」




『否。お前は、“愛されたい”と叫んでいた。だが誰にも届かなかった』




「届かないから……諦めたのよ。期待なんて、しないほうが楽だった」




『そして自分で“悪役”の仮面を選んだ。滑稽だな。誰かに好かれる資格もないと、最初から決めつけて』




「うるさい……黙りなさいっ……!」




逃げたいのに、体が動かない。過去に飲み込まれそうになる。胸が苦しい。喉がつまる。




セリア……セリアはどこ?




「リディアっ!」




その声に、我に返った。




セリアが、鏡の裂け目の向こうから、わたくしの手を――幼いわたくしの手を取っていた。




「行こう、リディア。こんなとこ、もういらないでしょ!」




「でも、わたくし……」




「あなたが“欲しい”って言ったもの……わたし、知ってるよ」




セリアの手は温かかった。




わたくしは、震えながら言葉を紡ぐ。




「……誰かに、傍にいてほしかった。甘えて、泣いて、抱きしめてもらいたかった。……わたくしだって、普通の女の子になりたかったのよ!」




それは、わたくしの中で長い間、口にしてはいけないと思っていた言葉だった。




誰かに求められたい。ひとりにされるのは、もう嫌。




「だから……わたくしは……!」




「リディア、お願い!」




セリアの声が、祈りのように響いた。




「あなたのままで、戦って!」




その瞬間、時の座が光に包まれた。




『……人間の“欲”を否定せず、なお歩むか。ならば、力を与えよう』




フィルグレアの姿が、万象の結晶体としてわたくしの前に降り立つ。




『その傷を誇れ。弱さを見せられる者こそ、真に強き者だ』




七彩の光がわたくしを包む。




額に、契約の紋章が刻まれた――過去と未来を超えて、わたくしだけの“光”がここにあるという証。




「リディア……っ!」




セリアが抱きついてきた。涙が頬を伝う。




「すごいよ、ほんとに……リディアは、わたしの……大切な人……!」




「……ありがとう。わたくし、ようやく、心の奥で泣くことができたの」




精霊王は静かに頷いた。




『契約、完了。二つの魂は重なり、精霊の理を得たり』




光が収束し、わたくしたちは地上へと還っていく。




けれど、あの声は確かに残っていた。




――“世界は、欲望で満ちている。だが、それは終焉か、再生か――”




 




わたくしの答えは、もう決まっている。




「わたくしは、幸せになる。誰が何を言おうと、これが――わたくしの物語だから」




精霊の王を超え、わたくしは再び、現実へと帰る。




次の舞台で、再び誰かと手を取り合うために。

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