「わたくしだけの願い、あなたに届くなら」

風が、頬を撫でるように通り抜けた。




あたたかく、やさしく、けれどどこか、哀しみを含んだ風だった。




「――戻ってきた、のね……」




精霊界から帰還した瞬間、胸の奥が不思議と空っぽだった。




感情を使い果たしたような、けれどその余白に、何かが静かに満ちていくような――そんな、やわらかな気配。




隣にはセリアがいた。わたくしの手を、まだぎゅっと握っている。




「大丈夫? リディア……」




「ええ。……でも、ちょっと怖いの。自分が、“幸せになりたい”って口にしてしまったことが」




「どうして……? それって、当たり前の気持ちじゃない?」




「――当たり前、かしら」




わたくしは空を見上げる。どこまでも蒼く、雲一つない王都の空。




「幸せって、誰かのものを奪ってはいけないとか、わたくしが欲しがるには相応しくないとか……そう思っていたの。ずっと」




セリアが眉を下げ、手をぎゅっと強く握った。




「リディアは、優しすぎるから」




「優しいだけじゃ、誰も救えないもの。わたくし……何もできなかった。誰の手も、取れなかった……」




そう呟いた瞬間、ふと背後から声が聞こえた。




「だったら今、取ればいい」




その声に、わたくしの胸が跳ねた。




「……ルーファス」




「お前はずっと、誰かを守ろうとしてきた。なら、今度は誰かに守られてみてもいいんじゃないか?」




寡黙で、不器用な男。




でも、彼の言葉はいつだって、まっすぐで。




「……わたくしの手を、取ってくれるの?」




「当たり前だろ。あのとき……手を離したのは、俺だから」




「……あれは、あなたのせいじゃないわ。わたくしが……」




「それでも後悔してる。だから、今は……もう一度、お前の傍にいたい」




そう言って差し出された手は、大きくて、あたたかかった。




わたくしは、恐る恐る――けれど、そっと指先を重ねた。




「……ねえ、リディア」




セリアが、ぽつりと口を開く。




「願いが叶うなら、何を願う?」




「……わたくしは、ただ、“わたくしでありたい”」




言葉にしてみると、それはひどく単純で、でも――誰より難しかった。




「誰かの娘でも、婚約者でも、役目でもなく……ただの“リディア”として、笑っていたいの」




セリアの瞳が潤む。




「それって……すごく、素敵な願いだと思う」




「ほんとう?」




「うん。だってわたし、“リディア”が好きだもん」




「セリア……」




わたくしたちは笑い合った。




それだけで、ほんの少しだけ、“わたくし”という存在がこの世界にいていいのだと、思えた気がした。




けれど――その余韻を裂くように、空が震えた。




大地が、鳴いた。




「……何、この感じ……?」




「魔力の揺らぎ……? でも、これは……!」




ルーファスが即座に剣の柄に手をかけた。




「来る……っ、何かが!」




次の瞬間、王都の東方から吹き荒れる黒風。




“瘴気”――魔族のもたらす死の風だった。




「なんで……もう封印されたはずじゃ……」




「違う、これは……“何か”が目覚めようとしている……!」




わたくしの紅霞の瞳が、遥か上空――王都の聖堂塔を捉える。




あの場所に、何かが、いる。




「わたくし……もう、逃げない。わたくしの願いは……誰かと一緒に、生きていくこと」




それは、戦いを拒むことではない。




“わたくしでいる”ために、わたくしは剣を取る。魔法を編む。




「ルーファス、セリア――行きましょう。わたくしたちの未来を、選びに」




「……了解だ。リディア、お前が行くなら俺は従う」




「もちろん、わたしも!」




――そうして、わたしたちは走り出した。




心に灯った“わたくしだけの願い”を、今度こそ信じて。




それが、誰かに届くなら。




それが、わたしの、わたくしたちの――生きる証になるのだから。

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