STAGE.16 気い狂て――ナナコの過去(序)

 ゴンゴンゴンゴン――。


 二人用の小さなダイニングテーブルの上に500mlロング缶のチューハイが十二本。戸塚スズカの手によって実に淀みないリズムで並べられ、チューハイの城壁を形成した。


 渋谷でのライブのあと、打ち上げの席で酒に潰れた草薙ナナコを自宅の布団に移し終わり、スズカの飲酒タイムがはじまった。自分よりも悪い酔い方をしている者がいると気分良く酔えないので打ち上げの席では控えめにしていたのだ。


 ぷしゅっとやって、まず一本ぐいっと飲み干す。


「くあー! これこれー!」


 至福の声をあげてから、ふうっとひと息つくとスズカの視線は紅梅色の髪の毛を散らして眠るナナコの顔に吸い寄せられた。


 時にステージの上でカリスマを演じるナナコが無防備な表情で眠っている。


(ナナコのベース。わたしと竿本さおもとさんで直してるからね。ベースが戻ってきたら、またカッコいいナナコを魅せてよね)


 心の中でそう語りかけるスズカ。でも、一気飲みのせいでもう結構お酒が回ってきているのでその言葉は口に出ていたかもしれない。


 カッコいいナナコに魅せられたい。それは間違いなくスズカの本心だ。しかし、それと同時に今の弱っているナナコを見ていると高校で出会った頃の彼女を想起させられて、それはそれで心の奥にしまっていた大切な思い出が具象化されているようでもあり、青春の匂いをともなって胸を締め付ける。


 その切なさにどこか甘さもあって一定の心地よさを感じないでもなかった。現実の中にいるスズカに対してナナコの時間だけが遡ってしまい、まあ、包み隠さずに言ってしまえば酷く幼い姿に映る彼女が愛おしいと思っている、ということだ。


「そうは言っても、ヒロくんもシンちゃんも、ファンのみんなも……わたしも……。カッコいいナナコを待ってるんだからね」


 缶チューハイを一本空けるたびにどんどんと目が

細くなるスズカは、べらべらに酔いながら一人静かに、胸に走る切なさを噛み締めて十二本の酒を落城させた――。


 ※


 夜が明ける前。明けの明星がきらめく頃。

 酒で潰れていたナナコが目を覚ました。


 隣では城攻めを終えて十二本のチューハイを腹に抱えたスズカが重機を思わせる騒音を立てながら眠っている。


――あーし……みんなに恥ずいこと言った、よな……。


 ぐごぐごといびきをかいているスズカの顔を見ていたら酒の席での記憶がまばらながらフラッシュバックしてきた。


 ナナコがアルコールの泉の中に沈んだ記憶の欠片を拾い上げて赤面していると、隣のスズカが時折水中に溺れるようにぐご! っといって息が止まったりしている。


――スズカのいびき、なんか、いつもよりヤバくねーか……?


 そんな心配をしてスズカの顔を見ていたら、高円寺の時に彼女を傷つけられると感じた際に激昂したことが頭を過る。


 あの時、自分のせいでスズカを傷つけられると思ったのだ。


 過去に、自分のせいでスズカを傷つけてしまった時のことを思い出して、そんなことだけはもう絶対に嫌だと思ったのだ。


 ナナコは隣のスズカの寝顔を見ながら、彼女と出会う前後のことを回想する――。


 ※


 ナナコが過去を振り返りはじめてまず頭に浮かんだのは十四歳、中学二年の頃のこと――。


 草薙家は両親とナナコ、妹のヤエと弟のクロウの五人家族。仲睦まじい一家であったがどうにも金がなく有り体に言ってしまえば貧乏だった。貧乏ということは満足に食事を取ることもできない日もあるということで、そんな日の朝はナナコの親が、


「昨日の晩に朝ごはんの分も出してしまったから給食をたくさん食べておいで」


 と言うので朝ごはんを我慢して、ナナコは健気にその言葉に従って学校給食の時間を待つのだった。しかし、学校給食が提供されるまでの午前中のうち、耐え難いほどの空腹感に苛まれることがもちろん度々あった。


 草薙ナナコがこの空腹感に対抗する最終手段の開発を終えたのは十四歳だった。この秘技を編み出すまでは、意味もなく廊下を何往復もして運動動作に意識を集中することにより空腹感を遠ざける、机に突っ伏して何とか眠って空腹感を遮断してみる、あるいは椅子の上に体育座りになってげんこつを腹に、胃のあたりに押し付けて胃袋の空白を押し潰して空腹じゃないかのようにしてみる、などしてやり過ごしていた。


 で、その先で開発された最終的な手段がどのようなものであるかというと、まず、教室の黒板横にある黒板消しクリーナーやらマッキーのマジックやらの共用の備品が置かれている棚から輪ゴムを二つほど拝借。それを手にすると教室の後方に場所を移して、はむっと口にする。口の中で輪ゴムを左右に一つずつ配置させ、


 ぐにぐにぐにぐにぐにぐにぐにぐに――。


――盛岡冷麺。この絶妙に強めな弾力は、絶対的に盛岡冷麺の麺に似ている……。おいしい……。これで給食までのあとちょっと……我慢できる。


 ナナコはかつて一度だけ食べたことのある盛岡冷麺の弾力強めの麺を想像しながら輪ゴムをぐにぐにと噛むのだ。噛み締めているのだ。そうしているうちに食事を取っているような気がしてきて空腹感が薄れていくのだ。校則に違反することなく咀嚼行為のシミュレーションし、エアー食事を堪能できる。


 中学校の同級生は、もちろん輪ゴムを口にしているナナコを認識していたが、給食もよくがっついているので家に何か事情があるのだろうと察して、面白がっておちょくったり特段あれこれやんやと言うことはなかった。


 ナナコにとって特別に仲の良いクラスメイトはいなかったが、特別爪弾きにされるということもなかった。特別爪弾きにされることがないのだから、別に寂しくはないと思った。寂しいと思わないようにした。あたしには仲の良い家族がいるのだからと。


 進級して周りもナナコも進学先について考えはじめた頃、両親からは高校に進学するのなら公立校で頼むと言われた。ナナコは言われるまま、塾などに頼ることもできず一人勉強を頑張って何とか中の中の公立高校に合格した。


 無事に高校への進学を果たしたナナコの生活は、家の懐事情は相変わらずだが、可も不可もなく、そんな生活だった。


 学校であの女――八幡乃やわたのソマコに目を付けられるまでは――。

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