STAGE.4 大人の階段昇らない――ジョージの段

 草薙ナナコの肩を叩いて声をかけ、あまつさえ「大人六」でと値踏みした嫌らしいサラリーマン。彼はナナコに触れた時点で地雷を踏み抜いていた。


 ナナコはある出来事をきっかけとして他人との身体的接触を許さなくなった。ごく一部の人間/戸塚スズカ/バンドメンバーの二人を除いて。

 ライブでもフロアからナナコに触れようと手を伸ばす客は等しく蹴り飛ばされていた。彼女からのお仕置きを目当てにわざと手を伸ばす者もいるらしいのだが出禁になるのも時間の問題だろう――。


 これまでもこの地雷のせいでナナコがぶちギレる様子を何度も見てきたスズカは「こりゃ血が流れるなー」と事の顛末を想像した。


 ずずずっと二人から距離を取りながらスズカはサラリーマンに対してあらかじめ詫びを入れる。


「おじさん、ごめんねー。この子、触られるの、すんごく嫌みたいでさー。ほんと、悪く思わないでねー」


 スズカが言い終わるや否やナナコは背中にあったベースをギグバッグに入ったままスイングする。ぶわっと広がったナナコの紅梅色のミディアムヘアーから、どれだけ手加減がなかったのかがうかがえる。


 ゴツッ。


「『大人』だか何だか知らねーけど、あーしはこれからもずっと『夢見る少女』なんだよ!」


 ナナコが咆哮する。


 鈍い音を放った一撃で全てが終わったかに思われたがなんとおっさんは健在。

 ベース in ギグバッグを防いだ左手のビジネスバッグの影から、にいっと気色の悪い笑みでナナコを覗く。


――おかしい。鞄にしちゃ妙にてえ。


 スケベな手で触られたせいで怒りに燃えるナナコ。このまま終わらせるわけにはいかないと何の躊躇もなくバッグから愛機/五弦ベース/ATELIERアトリエ Zゼット Betaベータ5を取り出す。

 ステージを再現する最後のピースが手に収まりカリスマベーシストが覚醒する――。


 格闘技知識が小脳にセットされ多量の興奮物質が噴出する。ナナコの脳がBPM180のDビートで疾走する。


 右足で勢いよく地面を蹴るとナナコはおっさん目掛けてベースのボディを突き出す。

 しかし、おっさんは左にさっと軽やかなステップ。ひらりと躱されてしまう。


 右手だけで握っているベースを逆水平に薙ぐがこれもひょいっとバックステップして華麗に避ける。


――次は逃さねえ!


 機会を逃すまいと華麗なるおっさんを視界の中央に捉えるナナコ。その端でスズカがどこから取り出したのかロング缶のチューハイを掲げて「なーにやってんだー、ナナコー! やれやれー」とはしゃいでいる。へべれけになったスズカが火に油をたんまり注ぐ。


――楽しんでんじゃねーよ! 酔っ払いが!


「納得がいかない、という表情かおをしているねえ」


 おっさんがにたにたと笑う。

 確かに納得はいっていないが、それは人のトラブルをへらへらと楽しんでいる酔っ払いの連れに対してである。スズカが騒いでいるせいで見物人が集まってきてしまった。

 そうとも知らないおっさんがなおも語る。


「私はねえ、君みたいな勝ち気な子を中心にやっているのでね。こういう事態に備えて格闘術を嗜んでいるのだよ」


 得意げなおっさんの足元は軽やかにステップを刻み続けている。


「この鞄もそう……。本来は要人警護の際にSPが用いる防弾鞄を改造したものだ」


 攻守交代とばかりに鞄を投げ捨てると、おっさんはパンチとキックのコンビネーションを繰り出す。くたびれた姿からは想像だにしなかった正確でキレのある打撃。

 ナナコはそれをベースで捌こうとするもその穴をつく攻撃を何発かもらってしまう。


「ああ、良いねえ! 良いよお! こうやって屈服させたあとでというのも堪らないのだよ!」


 攻めに転じて手応えを感じ始めたおっさんはナナコをホテルに連れ込んだあとを想像してギアを上げる。


――このおやじ、なんつースタミナだよ……! テンポが落ちるどころか上げてきやがった……!


 反撃の一手がなかなか出ないナナコ。

 しかし、何発かおっさんのコンビネーションをもらううちにそのインパクトに規則性があることに気が付く。

 おっさんのコンビネーションは「ジャブジャブワンツーミドルキック」もしくは「ワンツーハイキックハイキック」のどちらかでしかなかった。


――カウンターを狙うならジャブ始動のコンビネーションだ。リズムで言や『たん。たん。たたたん。うん』ってとこか。


 ナナコが言うこの「うん」というのはミドルキックを終えて正体の構えに戻るタイミングを指す。言ってみれば攻撃というフレーズにおける休符だ。

 奇しくもギアを上げたおっさんのコンビネーションのテンポがBPM180となり、ナナコの脳内で走るDビートの上にぴったりと乗ってしまう。


 たん――。


 ジャブが来た。

 牽制の役割であるこの一発目を捌くのは諦める。

 ナナコの鼻に直撃するが気にしない。


 たん――。


 ぐんと顔を前に突き出して二発目のジャブをおでこで受ける。


 たたたん――。


 ワンツーをベースのボディで受け、左手をネックから外す。

 最後の右ミドルを自由になった左手で受ける。


 うん――。


「だあ! もらった!!」


 右手のベースを思い切り振るう。

 ミドルキックの戻り際、まだ荷重の残る左足、前脛骨筋――カーフ――を目掛けて。


 ゴッ。


 カーフキックよりも極悪な、ベースのボディの角によるその一発で左足は機能を停止。おっさんはアスファルトの上にへたり込む。

 

 身動きが取れなくなったそのこうべに薪割りの要領で、ぎりりと握り締めたベースを一切の遠慮なく叩き込む。


 ゴオォォォォン――。


 雷轟電撃。


 脳天をかち割る衝撃音とともに極太弦の振動が木霊する。調子の悪いベースでもこれだけの振動を与えるときちんと鳴るようだ。


 やや遅れて――。


 ぶぴっ。


 と、おっさんの両の鼻の穴から打ち上げロケットよろしく勢いよく鮮血が噴射する。


 噴射してなおも蛇口の壊れた水道のようにだばだばと鼻血が流れ、さらには頭の上にお星がぐるぐる回る。


「あひあひあひあひ」


 おっさんは頭上の流星に焦点を合わせられず、口をぱくぱくさせている。壊れたレコードと化してしまった。


「あのおじさん、大丈夫なの――?」

「なんか、女の人買おうとしてたっぽいよ――?」

「じゃあ、おっさんが悪くね――?」

「あひあひ言ってるのはさすがに――?」


 群衆から不安の声が漏れてくる。


 ゆっくりとクールダウンする頭が目の前の現実を処理し始めてナナコは「あ、やっちまった」と思った。

 やっちまったと思っていたら遠くの方からサイレンが近付いてきていた。


「やば、サツじゃん! スズカ! ずらかるよ! はいそこ、道開けて!」


「ぐえー。走れないー」


 面倒な後始末に巻き込まれたくないナナコは見物客を割るとスズカの手を引きながら吉祥寺の薄暗く薄汚い路地裏に逃げ込んだ。


 このあと連れの酔っ払いが滅茶苦茶に吐いた。

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