STAGE.2 不衛生環境西武新宿決戦――決着

 ステージの上では敵などいない最強のカリスマベーシスト、草薙ナナコ――。


 ナナコは最高のライブを終え、最高のライブを鮮明な記憶のリフレインとして夢想するために祝杯もあげずに家路を急いでいた。しかし、西武新宿駅前の広場で突如として鉄パイプを手にした暴漢に襲われてしまう。


 彼女は怒りに任せて愛機/五弦ベース/ATELIERアトリエ Z ゼット Betaベータ5で応戦。極限の緊張と怒りによる興奮、そして暴漢との格闘により三十八度に達した体温。

 そのすべてがステージ上でのバイオリズムを再現する――。


 この西武新宿駅前の広場をステージとして草薙ナナコが覚醒した。


 普段より格闘技の動画をあさる癖のあったナナコの脳内に、シナプスを介してそれらの情報がケルヒャーの水流の如く押し出され一気に駆け巡る。


 ナナコは今、瞬時に最適なアクションを選択できる、いわゆるゾーンに入った。

 彼女の脳内には、興奮物質/アドレナリン/ノルアドレナリン/ドーパミン/エンドルフィンが多量に分泌され、高圧タービンよろしくとてつもない速度で頭が回転している。

 情報の処理速度が向上し視界に入るすべてのものの動作がゆったりと感じられる。たかが痩身のヤク中の動きを捉えるなど造作もない状態となっていた。

 今のナナコであればBPM280の16ビートに合わせた正確無比な演奏すら容易だろう。


 ずざっとバックステップして、鍔迫り合いの後、不気味にうなだれたままの男との距離を空ける。

 そして、設定し直したこの間合いが、ベースという獲物のリーチを活かすものとして最適であることを直感的に理解する。


「まっすぐだからあ! こういう状態で振らないといけないなあ!」


 動画で観た一九九九年のとある格闘技合宿の映像。その受け売りが口をついて出る。

 左下段から斜めに振り上げ弧を描き始めたベースは、ぐっと力強い初動ののち、適度に脱力して振るわれ鞭のようにしなりながら伸び、男の左肩にどんと衝撃を与える。


「力を抜いて、相手に効かなきゃ意味がない!」


 振り抜いたベースにかかる遠心力をそのままに体をもう一回転させ同じ軌道でさらに薙ぐ。二連撃――。


「分かる!?」


 二撃目は腹に食い込み、どうっと鈍い音を立てる。さすがの連続攻撃に男はよろめいて片腕を地面につける。


 この華麗なベース捌きに群衆から、おおっと感嘆の声が漏れる。拍手をする者も現れる始末。およそまともとは思えない狂った男に女性が襲われた、というのが事の発端だというのにずいぶんと呑気なものである。完全に見世物と化している。


「ったく。ステージがどこでも盛り上げちまうみてーだな……!」


 振り抜いたベースを掲げながら俯き、まるで特撮ヒーローの決めポーズのような姿勢のまま静止しているナナコの口から自賛の声が漏れる。

 そして、はっと息を短く押し出し、今のはどうだと顔を上げ男に視線を向ける。ナナコの口角は上がっていた。


 しかし――。


 男は陽炎のようにゆらりと不気味に立ち上がると痛がる素振りもなくへらへらと笑いはじめる。


――クソが。こいつ、今の打撃を受けて立ち上がれんのかよ。ゾンビかなんかか?


 ナナコは気が付いていなかった。

 普段ろくすっぽ運動もしていないひょろいバンドマンがいくら武器を持って振り回したとて、痛覚が飛んでしまっているであろうこの男に対しては有効打になんかなり得ないということを。


 わずかな膠着の時間も許さず男が操り人形のように強引な動きで両腕を広げて飛びかかってくる。


――いや、これはタックルじゃねえ! クソ! 見えてるのに体が着いてこねえ……!


 男が蹴りの姿勢に入るそのちょっとした初動がナナコにはスローモーションのように見えていて完全に次に取る動作を捉えている。

 だが、見えたとて体が動かず男の前蹴りに対する回避行動も防御姿勢も取ることが叶わない。


 だんっと乾いた音が広場に響き渡りナナコが宙に吹っ飛ぶ。一瞬遅れて手から滑り落ちた五弦ベースがアスファルトと激突した。その衝撃でべーんと弦が鈍く揺れ、空虚な残響となって新宿の街に溶けていく。

 急いで立ち上がるも男に背後を取られて抱き付かれる。がしっとクラッチを組まれてしまい全くの身動きが取れない。


「うわあ! 離せ! 気持ち悪いんだよ!」


 ナナコの悲鳴も虚しく暴漢は腕に力を込めてメリメリと引き絞ってくる。


――っ……! こいつ、なんつー力だよ。ダメだ、あーしの腕力じゃ引き剥がせねえ……。


『これよく足の甲とかって言われるんですけど、指なんですよ。踵で指を狙って体重かける――』


 潰されないようギリギリで耐えているナナコの頭に天啓のように声が鳴る。

 これは確かジークンドーの達人が自身のチャンネルで暴漢に襲われた際の対処法をレクチャーしていた動画。

 今がまさにそのシチュエーション。

 ナナコは達人の教えを実践すべく厚いソールの踵で男の足の親指を打ち抜く。


 迅雷一閃。


 痛覚が麻痺している男であっても、落雷のような一点集中の衝撃に思わずクラッチを外してしまい腕が緩む。その隙を見逃さずナナコは男の拘束から脱出。


 満身創痍。転がりながら何とか男との距離を取る。

 はあ、はあとナナコの荒い息だけが響いている。


――ダメだ。このままじゃ埒があかねえ。……あ? そうか!


「おい! そこのロン毛!」


 何かを閃いたナナコがすぐ側にいる男に呼び掛ける。顔は危険な痩身の男に向けたまま左側にちらりと視線をずらす。


「は? 俺?」


 あたりをキョロキョロと見回し自らを指差して間抜けに答える長髪の男。


「そうだよ、あんた! 今! 今、何時!?」


「え? あ、22:39です」


「おっけー。あんた、22:40ちょうどになったら教えて!」


 有無を言わさぬナナコから急にタイムキーパーを任されたロン毛の男は、彼女の意図も分からぬままその時間を見逃すまいとスマートフォンを凝視し始める。

 一方のナナコはというと男の動きに注意を払いながら地面に転がる機材たちの位置を確認し、その時が来たあとに取るべき行動に思案を巡らせていた。


――22:41……。60秒……。行ける……!


 22:41。

 これが意味するもの――西武新宿駅発の急行 拝島行きの発車時刻である。暴漢を戦闘不能にすることは不可能と踏んだナナコは命大事に逃走の一手を打とうとしていた。


「22:40になりました!」


「よし来たあ!」


 ナナコは脳内で寸分の狂いなくBPM60のリズムを刻み始める。これは即ち一拍が時計の秒針と同じ速さであり、つまり60カウントで1分ちょうどということになる。


 57、56、55――。


 駆け出したナナコがまずはギグバッグを拾い上げる。


 46、45、44――。


 次いでばらばらに転がるエフェクターを次々にギグバッグへ放り込む。


 35、34、33――。


 背後から男の気配がする。

 これもナナコは想定済み。


 男の方へ振り返ったナナコは右膝を斜め四十五度に上げ直角に踵で蹴る。インパクトと同時に膝と股関節を連動させ一気に足を引き寄せる。


 掛け蹴り。


 ナナコの咄嗟の変則的な蹴り技は男の顎を見事に捉えて粉砕。暴漢が膝から落ちる。


 22、21、20――。


 最後に五弦ベースを拾い上げるとそのまま急行電車を目指して駅ビルの階段を一気に駆け上がる。


 16、15、14――。


 男が立ち上がってナナコを追いかける。

 ナナコはすでに階段を上りきるところ。


 5、4――。


 Suicaスイカで改札をタッチしホームに入場。


 2、1――。


 男が閉じた改札に引っ掛かってつんのめっている。


 0――。

 ぱるるるるるるるる――。


 発車合図と同時に電車滑り込んだナナコ。

 車内から吠える。


「バーカバーカ! ざまあみろ! おととい来やがれっつ――」


 閉まるドアによってプラットホームの上でカットアウトするナナコの捨て台詞。


 発車した急行 拝島行きの車窓からごろごろじたばたと悔しがる男の姿が遠のいていくのが見える。

 逃走に成功し最悪の事態を回避したナナコ。けれども、暴漢との取っ組み合いでそこかしこが負傷して身体中が痛む。


「はあ、はあ……。ってー……。クソが……、なんつー災難だよ」


 右手のベースを見れば無数に刻まれた打痕。

 左手のギグバッグを開けば塗装の剥げたエフェクター。

 こんなことになるなら打ち上げに出て美酒に酔っておくんだったと、今日の再演は悪夢だと深く肩を落とす草薙ナナコであった。

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