パンク娘。ヴィランを殴れ。
七理チアキ
激闘:ストリートファイト編
STAGE.1 不衛生環境西武新宿決戦――開戦
草薙ナナコはステージの上で最強だった。
彼女がベースを持ってステージに上がれば敵などいなかった。その日、カリスマは新宿
彼女が右腕を掲げればフロアはそれに呼応し誰もが拳を振り上げる。激しい曲に合わせて煽ろうものならモッシュがフロアに渦を巻き、波を立て、それを乗りこなさんとクラウドサーファーが後を絶たない。
ギターの轟音、ドラムの地響き。その遥か底で草薙ナナコの五弦ベースが超重低音で這いずり回る。
押し寄せる壁となった音圧でフロアは沸騰。立ち上る水蒸気が照明に照らされてきらきらと光る。それらは天井で冷やされ、凝縮し、汗の雨となって頭上に降り注ぐ。気持ち悪いはずなのに、まるでそれが祝福のようでもあった。
バンドが最後にどでかい音を一発鳴らすと爆発的な歓声とフィードバックノイズが混じり合いこの空間にいる者すべての鼓膜と心を揺らした。
※
「あーし、打ち上げパスで!」
「は? またかよ。最高のライブだったってのに飲んでかねえの?」
「悪いな!」
草薙ナナコはそう言いながら右の掌でひらりと挨拶を交わすと仲間たち/バンドメンバー/スタッフの間をするりと抜けてライブハウスの裏出口へと向かう。
紛れもなく最高の夜だった。にも関わらず、打ち上げには参加せず、いそいそとライブハウスを後にしようとする彼女。小走りに合わせて背中のギグバッグが上下にリズムを刻む。
――最高のライブができた日こそシラフで帰る。この興奮をアルコールでぼやけさせるなんてもったいねえ。布団の中でさっきのライブを、出囃子から思い返して夢の中でもう一回ステージに立ってやるんだ。
そう心の中でひとりごつナナコ。
最高の夜は、二度味わう――。
それが彼女の誰にも譲れない信条だった。
KANTIKNOCKの地下階段をタン、タンと小気味良く上り、靖国通りに出る。日が沈んでだいぶ経つというのに、いまだアスファルトは熱を帯び、八月の湿った生暖かい空気が肌に纏わりつく。
ナナコはいくつもの赤い尾を引くテールランプと並んで靖国通りを、西武新宿駅を目指して駆けていく。高揚感で満たされている彼女は流れる汗を気にも止めない。
駅前広場は客引き、酔っ払い、ちゃらちゃらした若者たちが入り乱れ、独特の澱んだ空気を生み出していた。ナナコは群衆の隙間を縫ってまっすぐに改札を目指す。
その時――。
カツン、カツンとナナコの背後から奇妙な音が聞こえてくる。アスファルトを何か固いもので叩く音。
思わず振り返るとそこには痩身の男。
鎖骨あたりまで伸びる黒い髪。
手には鉄パイプ。
少し距離を空けた先の方に立つ男を視界に捉えたナナコは違和感を覚える。こんな暑い夏の夜だというのに黒い長袖なのかと。不思議に思い凝視すると、それは衣服などではなく上半身にびっしりと入れられた刺青の塊であった。怪しげなこの男は半裸だったのだ。
新宿という街に出入りしていれば、いつかはこんな奴ともすれ違うだろうという想像を頭の片隅に置いていたつもりのナナコであったが、いざ目の前に現れるとなると背中にぞわりと悪寒が走る。
猫背の姿勢で男は何かを探すようにゆっくりと右に左に首を振る。右手に握る鉄パイプで地面を叩き、カツン、カツンと一定のリズムを刻んだまま――。
やがて、その首の動きが、ぴたりと止まる。
――え? 待って待って。あいつ、あーしのこと見てない? てか、こっちに向かって来てるよね? は?
ナナコがヤバイと思った瞬間には鉄パイプが眼前に迫ろうとしていた。無意識に左手に持っていたエフェクターボードを顔の前に構える。
この初撃により盾としての役目を終えたエフェクターボードが見事に四散。
ボードの中で整然と並んでいたはずのナナコのサウンドの心臓部である仲間たち/
――許せねえ……。あーしの大事な相棒たちを……!
彼女は、怒りに任せて背中のギグバッグを地面に下ろすと、ファスナーをじいっと開けて五弦ベース/
「上等だよ! やってやらあ!」
叫ぶや否や、力任せに五弦ベースを左から右に振り抜く。男の顔面を捉えたかに思われたがすんでのところでスウェー。しかし、ボディのお尻にある出っ張り/ストラップピンがわずかに男の鼻をかすめる。
ぺくん。
と音が鳴り鼻が曲がったかと思うと、次の瞬間。
びゅっ。
と男の右の鼻の穴から勢いよく鼻血が吹き出す。
吹き出してなお垂れ続ける鼻血が男の口をぬったりと覆う。それを不愉快に感じたのか、男はぶべぶべべと唇を震わせて口に貼り付いた鮮血を撒き散らかす。
さらには、内より溢れ出す怒りを表すかのように両手で握り締めた鉄パイプをガンガンとアスファルトに打ち付け始める。まるでチンパンジーの威嚇行動のようだ。
――おいおい。マジかよ。こいつ、変な薬でもやってんだろ。
男が常識の外にいること、加減なんかできる奴じゃないことを理解し、一度の判断ミスが致命傷になると悟ったナナコは下手に動くこともできずジリジリと距離を測るしかなかった。
道端の吐瀉物と小便、行き交う群衆の汗体臭が夏のむっとした空気と絡まってナナコの鼻の奥を突き刺す。
――新宿、狂った街……。いつからだろう、失くしたカインドネス……。
ナナコは絶望していた。薄汚いこの街に。人々に。
うら若き女性がヤク中とおぼしき暴漢に襲われているというのに、いつの間にかにふたりをぐるりと囲んだ人々は、『やれ! やれ!』と下品に囃し立てたり、最高のバズネタが見つかったとスマートフォンで撮影したり、助ける素振りの一切を見せない。
――クソどもが! 助けろっつーんだよ……!
糸繰り人形が如く、自らの意思が伴っていないような不気味で強引な軌道を描き男が突っ込んでくる。
今度は振りかぶる様子が見えたのでベースで鉄パイプを受ける姿勢を取る。
男の鉄パイプとナナコの五弦ベースがまるで火花でも散らすかのようにギリギリと交差する。
押し切られまいと必死に抵抗するナナコの顔は血が上ってみるみるうちに真っ赤に。あらん限りの腕力でもって鉄パイプを振りほどくと距離を空けるべくずずっと後退する。
頭に上っていた血がすうっと引いていくのと同時に脳が妙に冴え渡っていくのを感じるナナコ。先ほどまで恐怖で狭まっていた視界が開け、色彩がクリアになっていく。
この感覚は――!?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます