第19話 新しい生活.1
「帆澄さま、まだ無理をしてはいけません」
「いや、大丈夫だと思うが……」
匙を持った初音が眉根を寄せると、帆澄は気まずそうに視線を逸らした。
初音の手にあるのは帆澄の茶碗。木の匙で掬った粥を今まさに帆澄の口に運ぼうとしていた。
地狐に負わされた傷は思ったより深く、毒は右半身に及んでいたため、帆澄は丸一日寝込んだ。
棟馬が作った解毒薬が効いて大事には至らなかったが、右腕のしびれがまだ少し残っている。
「地狐の毒は厄介だと教わりましたが、ここまでとは思いませんでした」
「俺よりも、初音さんは問題ないか? 足の傷はそう深くないと聞いたし、歩く姿を見る限り大丈夫そうに見えるが、俺のために随分と破魔の力を使ったのだろう?」
あれから数回、癒しの術を使った。解毒薬ほどの効果はないと分かっていたが、何もせずにいられなかったのだ。
「平気です。無理はしていません」
「それならいいが、もう必要ないからな」
念押しされ、初音は不承不承頷く。今振り返ると、首に噛みつくなど大胆なことをしたものだと思う。
「分かりました。その代わり食事はしっかり摂ってください。体力が回復した分だけ解毒薬の効き目も増すと凍馬が言っていました」
初音がはい、と匙を口元にもっていく。それを見て、帆澄がうーと口をへの字に歪ませた。
「ひとりで食べられる」
「無理でしたよ?」
初音が帆澄の右腕に視線をやる。まだ包帯が巻かれた腕は、痺れのせいで力なくだらんと布団の上におろされていた。持ち上げることもままならないのに、匙など使えるはずがない。
「どうしても自分で食べるというなら、もう少し解毒を心みますか?」
初音が唇を右腕に寄せようとするのを、真っ赤な顔で帆澄が止めた。
「いや。それはいい。もう充分だ」
「首は恥ずかしいけれど、腕なら平気です」
「俺が平気でない。分かった、食べるから。食べさせてもらうから」
帆澄が覚悟を決めたかのように口を開けた。初音が匙で粥を運ぶと不本意だと言わんばかりの顔で飲み込む。
「あーん」
飲み込んだところで、再び匙が口元に持ってこられた。帆澄はさすがに観念したのか、今度は素直に口を開けた。
その様子に、食欲があるのはいいことだと初音は嬉しそうにする。
それならと、柔らかく煮た里芋や大根、厚揚げの煮物を箸で運べば、空腹が勝ったかのように帆澄はぺろっと平らげた。一度食べさせてもらったことで開き直ったのかもしれない。鰊の甘露煮にいたってはお代わりを所望した。
膳がカラになり、食後のほうじ茶を飲ませようとしたところで、それは左手でもできると断られた。
それもそうかと、初音は手を引っ込める。帆澄が一口飲み落ち着いたところで、初音は改めて居住まいを正した。
「このたびは、助けていただきありがとうございます」
指を付き、畳に額がつくほど頭を下げた初音に、帆澄は困った顔で首を振る。
「もとは俺の配慮不足が原因だ。初音さんの怪我が大したことなくて良かった」
「おかげさまでかすり傷です。棟馬の薬草がよく効いてほとんど傷も塞がりました」
かすり傷ではなかったが、そういうことにしておく。薬が効いたのは本当だ。
初音は緊張した面持ちで小さく深呼吸をすると、帆澄の左胸を指差す。肌に巡らされた黒い触手は、心臓を中心として伸びているように見えた。
「あの黒い痣について聞いてもいいでしょうか」
初音の問いに、帆澄は持っていた湯飲みを盆に戻し、ゆっくりと首を横に振った。
「すまない。出来れば見なかったことにして欲しい」
見えない一線を引かれたように感じたが、初音は「分かりました」と素直に頷く。
所詮は勅令による婚姻だし、言いたくないことのひとつやふたつあるだろう。
その初音の反応に慌てたのは帆澄だった。
「そ、その。初音さんを信用していないとかそういう類いの理由ではない。ただ宮應の当主代行として易々と口にできないのだ。あの時、俺が言った言葉に嘘偽りはない」
早口でまくしたてられた初音は、丸い目をぱちりとさせる。
宮應一門に関することなら、尚更無理強いできないと思った。それは了承した。ただ、
「あの時、言った言葉?」
いろいろあり過ぎてどれのことだと考える初音に、帆澄ははぁ、と長く息を吐き頭を搔く。ようやっと上げた顔は心なしか赤かった。
「俺は初音さんを一番に守る、あなたは俺の妻になる人だから」
棒読みなのは明らかに照れ隠しだろう。初音の顔が見る間に赤くなる。
「あ、あの」
「邪気を帯びない妖を守る決意は変わらない。それでも、俺は初音さんを大事にする。約束する」
胸の奥に温かいものが広がっていく。
八重樫の家で初音の価値は妖を封じれることだけだった。常に守る側で、守られる対象ではない。
そんな初音を帆澄は大事にしてくれると言ってくれた。嬉しくて涙が滲みそうになり初音はそれを隠すように頭を下げる。
「そう言ってくださり嬉しいです。とても」
「だから無理はしないでほしい。今回はなんとか間に合ったが肝が冷えた」
帆澄の言葉に、そういえば、と初音は顔を上げた。
「帆澄さまはどうしてあそこに私がいたと分かったのですか?」
偶然にしてはあまりにもでき過ぎている。
じっと初音に見つめられ、帆澄はバツが悪そうに視線を泳がせた。
だけれどすぐに初音と視線を合わせると、がばっと頭を下げる。
「すまない」
面食らったのは初音だ。どうして謝られたのかまったく心当たりがない。
「あ、あの。頭を上げてください。どこか木の影からでも見ていたのですか?」
「近いが、違う。俺はずっと初音さんを見てきたんだ」
「ずっと?」
初音が首を傾げる。帆澄はおずおずと初音の腰の辺りを指差した。初音がその指の先を辿ると袴の腰ひもにぶら下がる古びたお守りが目に入った。
昔、誰からか貰ったが、当時の記憶は朧げにしかない。
「これが何か?」
「お守りの紐を解いて中を見て欲しい。初音さんなら、すぐに意味が分かるだろう」
「はぁ」
意味が分からないが、初音は腰紐に結わえていたお守りを取ると、その口を広げた。
「えっ、これ」
小さな袋の中には、さらに小さな黒い妖がいた。丸い綿ごみのようなそれの真ん中には、不釣り合いな大きな目がひとつついている。
「家なり、が入っていたなんて」
「勝手にすまない。幼い初音さんがひとりで妖を封じていると知って、心配で忍び込ませた」
帆澄の言葉に、記憶がするすると蘇ってきた。
初めて妖を封じた帰り道、初音は妖に襲われた。それを助けてくれたのは……。
記憶の中のぼんやりとした背中と、二日前に見た帆澄の背中が重なる。声が重なる。優しい手が重なる。
あぁ、と初音の胸がじわりとした。
「私は、ひとりじゃなかったんですね」
ずっとひとりで頑張ってきたと思っていたけれど、そうじゃなかった。
孤独な自分を気に掛け、見守っていた人がいる。心が歓喜で震えた。
「大した助けにはならなかったが」
帆澄が苦笑いを零す。そうして再び深く頭を下げた。
「だが、いくら見守るためとはいえ、勝手な行いをしてすまない」
「はぁ」
「初音さんにとっては気のいい話ではないだろう」
こてん、と初音は首を傾けた。自分はどうして謝られているのか、それも二度。皆目見当がつかない。「とにかく頭をあげてください」と頼むと、帆澄は緩慢な動作で身体を起こした。でも目を合わそうとしない。叱られるの待つ子供のように首を竦め、初音の言葉を待っていた。
「なぜ謝られるのか分かりませんが、嬉しいです。ありがとうございます」
にこりと微笑むと、帆澄が目を見張る。
「いや、初音さん、そこは怒るところだ。一度会っただけの男に、勝手に日常を盗み見られ――いや、やましいことは何もしていないが、それでも気味が悪いだろう?」
「そういう、ものなのでしょうか?」
それを言うなら、たった一度会っただけの少女を帆澄は善意で守ってきたことになる。心に浮かぶのは感謝だけだ。それほど初音の心は、思いやりに飢えていた。
どう言えばこの気持ちが伝わるのだろうかと、初音は言葉を探す。
「私の孤独や頑張りを知り、心を配ってくれる人がいたことに、救われたように感じます。今まで、当主として求められることはあっても、私自身を気に掛けてくれる人はいませんでしたから」
「……俺は、初音さんは次期当主という肩書以前に、ひとりの女性として素晴らしいと思う」
まっすぐ向けられた言葉に、初音の頬がかぁ、となる。
「そ、その……」
何か言わなきゃと思うのに、言葉が続かない。ひとりの女性として見られるのは初めてで、頭が真っ白になった。
(私は美琴のように可憐でも綺麗でもない)
生傷は耐えず、髪はいつも簡単にまとめるだけで着飾ることもない。
真っ赤な顔でもじもじとする初音に、帆澄は頬を緩めた。
「俺の目には、初音さんは十七歳の普通の女性に見える」
「そ、そうでしょうか。儚げでもなければおしとやかでもありません」
「はは、健気で真面目で素直な素敵な女性だと思うが?」
今度は首まで真っ赤になる。恥ずかしすぎて頭がくらくらしてきた。たまらず頬を手で押さえると、びっくりするぐらい熱い。
そんな年相応の、いやむしろ初心な反応をする初音に、帆澄は目を細め柔らかな笑みを浮かべた。
「棟馬に話しかけてくれ、嬉しかった。初めて会ったとき俺は俺のやり方を貫くと言ったが、その姿を見て初音さんなら理解してもらえるかもと思った。だから宮應の妖に対する考えを話し、長屋へ連れて行った。ただ、俺の勇み足だったのは認める。初音さんにとっては辛かっただろう」
「……自分がしてきたことが、良かったのか、悪かったのか今は分かりません。でも、妖に対する考えを少し変えてみようと思っています」
「そうか。その柔軟な考えには感謝するし、頭が下がる。ありがとう」
「そ、そんな。お礼を言われるほどのことでは……ありません」
帆澄の真摯な視線に、初音の心が落ち着かない。
どうしたというのだろうと、そわそわしてしまう。だから堪らず腰を浮かせた。
「あ、あの。食事も終えたようですし、私はこれで」
「ああ。そうだ、昼餉は握り飯にしてくれないか。あれなら左手で食べられる。初音さんに食べさせてもらうのは、嬉しいが恥ずかしい」
初音は真っ赤な顔でうんうん、と頷く。そうして帆澄の言葉を反芻した。
(嬉しい、んだ)
なんだか胸がぎゅう、となる。
初音は立ち上がると軽く頭を下げ、部屋を出ていった。
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