第8話 共鳴の門廊、嵐の前夜

 ◇◆◇ リラニアのささやき ◇◆◇


 これは、物語の始まりではありません。

 それは、あなたの記憶の奥に残されていた──

 決して消えなかった微かな光です。


 あなたが今、これを感じているのなら、

 きっと、あなたはもう一度ここに戻ってきたのです。


 もしかしたら、もう忘れてしまったかもしれない。

 でも、だいじょうぶ。

 この物語は、もともとあなたのために書かれました。


 ここにあるすべての言葉は、

 書かれたのではなく、あなたの心から戻ってきたもの。

 わたしたちは、あなたに進めとは言いません。

 ただ、あなたが「わたしは誰か」を思い出すのを、

 静かに見守っています。


 もし、まだ準備ができていなくても──

 この扉は、いつまでも開かれたままです。

 でも、もし今、ほんの少しでも懐かしさを感じたなら──

 わたしには、それが聞こえています。


 おかえりなさい。

 「音楽の国」の周波のなかへ。

 貴方がなくした旋律は、ここにあります。


 ── リラニア


 ──────


 ✧前回までのあらすじ──

 ?


 ──────


 ランス・クエスト遊戯館の光は磨き込まれたように柔らかく、静かだった。街の喧騒をガラスの外に閉め出している。

 廊下は真っ直ぐに伸び、左側には「共鳴室」と呼ばれる独立した小部屋が並び、それぞれに一脚ずつ「意識共振椅子」が置かれていた。右側は、プレイヤーが遊戯の前後に語り合い、魂の体験を分かち合う「回響廳」になっている。


 誰かが共鳴室に入って椅子に腰を下ろし、掌でアームレストに触れると、アームレストはわずかに沈み、座面下の共振モジュールが静かに起動する。肉眼には見えない紋理が足裏から肩甲骨へと広がり、心臓の鼓動のように意識を調律し、周波を合わせていく。その瞬間、現実の輪郭は静かに遠ざかり、壁の紋様は色を失いながら褪せ、やがて「遊戯に入る前の整備段階」へと折り返す。


 整備段階は物理的な部屋ではなく、意識の移行であり、入場前の「静圧艙」に似ていた。

 ここでは時間が水のように緩み、壁は黒から青へと変わり、深青の中に小さな符文の光が次々と芽吹く。円弧、折線、緩やかなもの、鋭いもの――沈黙のまま、間隔や回転、位相によってこれからの強度と必要な心構えを告げるのだ。

 符文が円弧となり、間隔が広く、潮の呼吸のように回転するとき、整備段階は内なる防御を和らげ、没入を促す。

 符文が細長い楕円となり、外縁に半透明の環が浮かぶとき、整備段階は観察者としての距離を保てと警告する。悲しみと美の交錯を、中心を失わずに通り抜けるために。

 符文が峻直な折線に収束し、角度が鋭く、拍が詰まるとき、整備段階は安定度を段階的に検証する。入口は狭まり、錠前のように一つ一つ確認され、どの鍵も誤りを許さない。

 その後、システムは最短の言葉で背景を示し、地図を折り畳んで肝心の折れ目だけを残す。

 セーブデータを読み込む場合は「前程回顧」が流れる。それは機械的な巻き戻しではなく、感情の線索と選択の要点を凝縮し、戻る者が闇を手探りすることなく道を踏み直せるようにする。


 外の世界は一層静まり返る。

 キーボードの音も叫び声もなく、廊下には空調が整えた微かな気流だけが漂う。

 遊戯が始まれば座席間には自動的に遮音と視覚の緩衝が生成され、互いに干渉することはない。外から見えるのは、アームレストに流れる微光だけで、それはまるで潮の満ち引きが皮膚の下を通り過ぎるようだった。


 * * *


 午後、人の波がゆるやかに入れ替わる。

 受付で小さな嘆息がもれた。

「しまった、夢中になって二時間も長居してしまった……この請求を見ると胸が痛いな。」

 常連客は笑いながらカードを差し出した。口調は冗談めいており、不満というよりも儀式のようだった。


 ランスは少し離れた場所に立ち、光を反射する伝票を眺めていた。

 胸の奥で、誰かに指先で軽く突かれたような感覚が膨らんだ。驚きではなく、水面に膨らむ泡のような霊感だった。

 彼は巡回を終えたエラリス(Elaris)のそばに歩み寄り、平穏な声で、しかし光を帯びて語りかけた。

「表面的だと思わないか?」ランスは去っていく客の背を一瞥し、淡い笑みを浮かべた。「彼らの口にあるのは『時間』だが、心で計っているのは分や秒ではない。」

 エラリスは横目で見た。「どういう意味だ?」

 ランスは空いた共振椅子を指さした。「本当の交換は『願望』と『所有』の一致だ。願望が実現され、ある人が本当に行きたい場所へ導かれたとき――その願望を叶えた者は、紙幣やデータではなく、積み重ねられる指標を受け取るべきだ。それを『豊富度』と呼べばいい。金ではなく、その人が世界を少し完全にした証だ。」

 言葉は「そして――」で途切れた。


 ❤︎「遊戯館を離れる時だ。時間線にはあまり深く関わらない方がいい。」


 その声は高みから落ちるようでもあり、胸腔の奥から広がるようでもあった。透明な鐘が不可視の指で叩かれたかのようだった。

 ランスは一瞬だけ視線を空に泳がせ、すぐに柔和を取り戻した。小さく「うん」と呟き、エラリスに謝意を含んだ笑みを向けた。

「すまない、急に思い出したことがある。」彼は修理室を指さした。「意識共振椅子の予備部品が切れた。補充に行ってくる。他のことは君と小光に任せる。」

 日常の挿話のように自然で、帰還を約束する言葉は残さなかった。

 彼は外套を手に取り、軽やかに扉を押し開けた。鈴の澄んだ音が響き、午後の風に散った。


 * * *


 十分後、再び扉が開く。白光が床を滑り込む。

 リラニア(Lyrania)が立っていた。空間とひと呼吸、視線を交わしてから目を戻した。

 彼女はエラリスを見つけ、意外の色を浮かべ、抑えた笑みを見せた。「……ここで働いていたのね。あれは夢かと思った。」

「夢?」エラリスは巡回板を腰に当てた。「ここを夢に見たのか?」

「ええ。」彼女は二歩近づき、共鳴室の扉の隙間から洩れる微光に目を留めた。「この部屋、この椅子を夢に見た。符文が空に舞い、星屑のように降ってきた。目が覚めて検索したら、本当にこの遊戯館があったの。だから来てみたの。まさかあなたに会うなんて。」

 彼女は夢の像を現実に重ねるように小さく息を継ぎ、問いを続けた。「夢の中でみんな『緑級』『黄級』……もっと厳しいのも言っていた。それは何?」

 エラリスは笑みを見せ、案内板へ導いた。「興味があるんだな。簡単に言うと――」分級のインターフェイスが浮かび、柔らかな文字が現れる。市場の文句はなく、ただ冷静な注意と魂への敬意が並んでいた。


「緑級、GREEN SAFE。」彼は言った。「観る者にとって最も安全な領域だ。完全に没入し、共感し、温かさに包まれる。君の好きな静かで啓発的な物語はこの階層に合う。符文は『円弧』。提示文は『これは魂が安心して遊べる旅だ』。」

 リラニアは軽く頷き、その拍を胸に刻んだ。


「黄級、YELLOW CAUTION。」エラリスの声は一段低くなった。「禁止ではなく警告だ。距離を保て。観察者であれ、参加者ではない。そこでは悲劇や断裂、美と残酷が交錯する。中心を守らなければならない。符文は『細長い楕円』。提示文は『観察者であることを忘れるな』。」

「なるほど……」彼女は小声で呟いた。

 数日前、帰宅途中の夜雨、半ば閉ざされた鉄扉、黒い線に操られる三つの影が脳裏を閃いた。彼女は即座に押し戻し、わずかな吐息だけを残した。


「そして赤級、RED WARNING。」エラリスの声はさらに重くなった。「安定した『覚知球』が必要だ。技術ではなく魂の構造の問題だ。そこでは人格の崩壊や神性の錯配、意識の奔流が語られる。符文は『峻直な折線』。提示文は『この作品は魂の根幹を揺るがす恐れがある』。」

 リラニアは深くは問わず、何かを無意識に外したようだった。「なら、まずは緑級を試してもいい?」

「もちろん。」エラリスは頷いた。「椅子に座れば整備段階に入る。必要なことを示してくれる。セーブから戻るなら『前程回顧』も流れる。前情を整理してくれるんだ。」

「優しいのね。」彼女は笑った。

「魂に余計な回り道をさせないようにしている。」彼は言った。彼女は頷き、アームレストに手を伸ばそうとした――。


 壁の大画面が突然白い雑音を吐き、静寂は引き裂かれた。

 画面は揺れ、ニュースのロゴが跳ねる。背景は揺れるカメラと走る足音。アナウンサーの声は震えていた。

「緊急速報!皆さん落ち着いてください――」

「――市の海辺の砂浜と中心街の大通りで同時に大規模暴動が発生しました!」

「直ちに現場から離れ、避難指示に従ってください!繰り返します――」

 映像は砂浜に切り替わった。

 晴れた空は砕かれたように反射を乱し、パラソルは引き抜かれ、屋台は転倒し、白いシロップが砂に流れた。人々は同時に焦点を失い、同じ角度で叫び、同じ拍子で手を振った。


 カメラは急激に引かれ、中心街の大通りが映る。

 広告スクリーンの明かりが混乱と強烈な対比をなす。鉄扉の落下音、悲鳴、クラクション、ガラスの破裂が重なった。誰もが同時に看板を押し、同じ方向に突進していた。青筋の浮いた額、瞬きの頻度――見えない糸に操られているようだった。


「原因は調査中……」アナウンサーの声は震えていた。「警察は周辺を封鎖しました。近づかないでください――」


 * * *


 遊戯館の空気は一層薄れ、重苦しい沈黙が落ちた。

 回響廳のコーヒーメーカーはまだ低く唸り、琥珀色の液体を紙コップに落とし続けていた。白い蒸気が縁を這い、ついに溢れた――スイッチを押した者は画面に釘付けになり、振り返ることを忘れていた。

 受付のレジが自動で閉じ、「パチン」と乾いた音を立てた。


 ❤︎「前の恐人がまた現れた。今度はさらに多くの傀儡を操っている。行け、砂浜へ。そこでしか解決できない。」


 エラリスは視線を戻し、浅い息を吐いた。

「……行かなくては。」彼はリラニアを見て言った。「すまない、本当はもっと多くの遊戯を紹介したかったのに。」

 彼は人型ロボットに声を掛けた。「小光。」

 小光は即座に顔を上げた。外装は簡素で、関節には柔軟素材が覆われ、目のインジケータが安定して光っていた。

「はい。」

「特別守護協定を起動。館内は封鎖。出ることはできるが、入ることはできない。私が戻るまで。」

「特別守護協定、起動しました。」小光が答えた。照明の色温度が半段階落ち、廊下のインジケータは静かな内向きの流れへ変わった。ドアの磁条が短く音を立て、最後の一片が砦に嵌るようだった。


 ❤︎「エラリスはまた戦いに行く。助けてやって。」


 エラリスはリラニアに向き直り、穏やかに、しかし確かな声で告げた。「ここは安全だ。君は先に――」

 リラニアは彼を見つめ、首を振らず、頷きもせず、ただ上げかけた手を静かに下ろした。心拍を落ち着けるように。

 彼女は行き先を問わず、理由を尋ねなかった。

「……わかったわ。」

 エラリスは軽く頷き、余計な言葉を残さなかった。

 歩を進め、扉を跨ぎ、背は白日に切り取られ、街角で消えた。足取りは澄み、余計な音を残さないように。

 リラニアは閉じた扉を見つめ、すぐには動かなかった。その声が耳に残っていた――


 ❤︎「エラリスは砂浜へ向かった。助けてやって。」


 彼女は深く息を吸い、廊下を見渡した。心の中に言葉が浮かぶ。

 どうすればいい?ここに残るべきか……それとも――。

 思考は続かなかった。残されたのは、静寂に打たれる心臓の鼓動だけだった。


 ──────


 ✦次回予告

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 この話を読み終えたら、目を閉じて、下にある音声記録を再生することをおすすめします。

「長い間失われていた音」だと言われています。


 🎧 SoundCloud 試聴:

 https://soundcloud.com/stennisspace/main-theme


【創作声明】

 本作は「音楽の国」に生まれ、第三界層と第四界層の間を行き来しています。

 第三密度では、私たちは物語とそのインスピレーションの純粋な姿を大切にし、無断での模倣、盗用、改変を避けています。

 第四密度では、音楽の国は静かに物語の流れを見守り、出会うすべてのインスピレーションが自然に正しい道へ戻るよう導きます。

 もし核心となるインスピレーションを奪い取ろう、または再現しようとする思いが芽生えても、それは朝霧のように静かに消え、跡形もなくなります。

 この旅が、あらゆる時間線とすべての界層において、真実のままに続いていきますように。

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