第三章「空の少女と、風の町」
関東平野の郊外。空に点在する高層住宅群と、そこを貫く送電線の鉄塔が、風に揺れるコンクリートと鋼の景色を作っていた。かつては田畑が広がっていたであろう場所だが、都市化の波が押し寄せ、人々の「利便」が自然を押しのけた。
その町には、風の音だけが残されている。冷たく鈍いコンクリートの隙間を縫って、風がひび割れた壁や電線をかすめていく。
そんな町に、ひとりの少女が降り立った。
白銀のロングヘアを揺らし、透き通るような淡い青のワンピースを身にまとった。
瞳は空そのもの——端正で、澄んでいて、しかしそこに深い思索の色を宿している。
彼女の名は、シェリア=アストレア。
“空”の化身。人類に対して希望を持ち、しかし人間たちの営みに戸惑い、観察者としてこの地を選んだ。
* * *
シェリアが最初に出会ったのは、小さな公園で風見鶏を直している中学生の少年だった。
黄色い作業着に汚れた手袋、工具を手にしながら真剣な眼差しで風見を調整している。
「君も、風が好きなの?」
彼に問いかけると、少年は顔を上げた。
くしゃくしゃの黒髪と光る瞳。どこか緊張した息づかいすら感じられる。
「え…あ、はい。僕、風見が好きで。風を“見える化”するのが楽しくて」
「風見って?」
シェリアは風見鶏の飾りが回る台に手を触れた。微かに震えるその感触に、町の風景とは異なる“息吹”を感じた。
「ここの風って、すごく複雑なんです。季節で変わるし、地面の温度で渦巻くし、鉄塔の影響もある。でも…手入れしてやると、ちゃんと教えてくれるんです」
「風が“教える”?」
少年は目を輝かせた。
「ええ。風の向きが変わる瞬間、ざわっとくるんです。からからから…と、何かを伝えようとしてるような気がして……僕には、わかるんです」
その言葉に、シェリアは静かに息を吸った。
その“感覚”は——彼女にとっても、「空」の微妙な変化を感じ取る感覚そのものだった。
「僕は、風間 颯太(かざま そうた)。」「ここは町の風見を全部管理してるんです。町の人には“風の少年”って呼ばれてます」
颯太と名乗るその少年は、自分のことを「風が好きだから」とだけ説明した。人付き合いは苦手で、友達も少ない。だが、風を見る目だけは誇りを持っているらしかった。
* * *
シェリアはその日から颯太に同行し、町の風見や送電塔、建物の風圧や音の違いを一緒に記録し始めた。
風速計も使い、季節変化や日々のデータを採取する。
颯太にとってそれは日常の延長であり、シェリアにとっては“空の観察”そのものだった。
しかし、しばらくすると、彼女は気づき始めた。
この町を吹き抜ける風は、ただの気象現象ではない。そこには、人間の心の音——無関心、疲労、未来への不安——が混ざっているのだ。
鉄塔の影で風が渦を巻くとき、それはかつての田畑の記憶を呼び覚ますようで、冷たいコンクリートの壁に反響する風の鳴き声は、都市の声を遮断しようとする人々の無音の叫びのようだった。
――人間の空気の中に、風は何を伝えようとしているのか。
シェリアは、その“問い”を胸に抱えた。
* * *
ある昼下がり、颯太とふたりで町はずれの廃ビルの屋上に登った。そこには強い風が吹き抜け、街のパノラマが見渡せた。
颯太が言った。
「ここの風が一番“正直”なんです。田んぼの風、住宅街の風、線路の風、それぞれ混ざって、でもちゃんと“風”だってわかる」
シェリアは目を細めた。
“正直”――その言葉に、空の世界の美しさと悲しさが重なった。
「颯太君、この町の風をどう思う?」
少年は息を切らしながらも、すぐに答えた。
「……僕は好きです。昔の田舎とも違う。都会とも違う。けど、ここでしか感じられない風がある」
その言葉に、シェリアはきらめく想いを抱いた。
この人間は、無関心ではなく、“中立”でもなく、“受容”しようとしている——風に、町に、生きる何かに。
「あたしは、風を諦めない人が好きです」
シェリアは本音を吐露した。
颯太は小さく息をのんだ。
やがて彼は真面目な顔で言った。
「シェリアさん……(呼び方は自由でいいです)僕、将来は気象関係の仕事がしたいんです。ここを出て、でも――この町の風も記録し続けたい」
その言葉を聞いた瞬間、シェリアの胸にまた、とても大きな「問い」が立ち上がった。
――人間が、自分の“風”を記録しようとする時、そこには希望があるのか、それとも──見えない恐れがあるのか?
* * *
観察期間の最終日、颯太とふたりで風見鶏の前に立ち、風見がゆっくり一周するのを見届けた。
そのときだった。
風見が止まり、風が急に静まった。町も、世界も、時間が止まったようだった。
ふいにシェリアは、その静寂を破るように風とともに囁いた。
「颯太君、風は本当は、私たちに何を伝えたがっているのだろう」
颯太が小さく笑った。
「答えは……自分で見つけていくものです」
彼はそう言って、空を仰いだ。
シェリアも視線を上げた。青空は淡く、しかし確かにそこに在る――その“在ること”こそが、自然の証しだった。
そして彼女は、自らに問いかけた。
――人間が、風を愛し、その声を聞き続けること。それは、崩壊の前に立ち向かう、最後の希望の一つではないか、と。
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