第二章「陸の巨人と、枯れゆく森」
北の大地、北海道――
空が低く、風は鋭く、そして森は沈黙していた。
大雪山系の南東、かつては原生林が広がっていたはずの山裾に、茶色く変色した木々が連なっている。
原因不明の枯死、外来種の昆虫による樹木被害、山火事の痕跡。緑はまだらに残っていたが、遠目に見ても、この森が“病んでいる”ことは明らかだった。
その森の縁、標高700メートル付近にぽつんと佇む小さな集落。
人口は100人に満たず、高齢化と過疎が進んでいる。かつては林業が盛んだったが、今では細々と農業と観光でしのぐ程度。人の声より、風に擦れる木々の音のほうが多い。
そこに、一人の“旅人”が降り立った。
長身の男。年齢は三十代後半に見えるが、どこか年齢の概念を超えた存在感がある。
厚手の土色のコート、頑丈な登山靴。歩くたびに、地面がかすかに低く鳴るような錯覚すらあった。
彼の名は、ガルド=テラ。
“陸”の化身。人類に対して明確な敵意も好意も持たない、観察者である。
ガルドが足を踏み入れたのは、人間にとっても、自然にとっても、限界に近づいている場所だった。
* * *
彼が最初に出会ったのは、一人の少女だった。
背丈は低く、髪は短く切り揃えられ、額には汚れたキャップ。
長靴に軍手、背中には折りたたんだ熊よけの鈴。彼女は森の入口近くで、一本の若木に水をやっていた。
「おじさん、観光客? 珍しいね、こんな時期に」
少女は警戒心を見せず、にこりと笑って声をかけてきた。
「いや、ただ森を見に来た」
「ふーん。じゃあ、案内してあげようか。私は木下 紬(きのした つむぎ)。地元の中学生。おじさん、名前は?」
ガルドは一瞬迷ったが、正直に名乗ることにした。
「……ガルドという」
「外国の人? 山岳ガイドとか?」
「いや。私はただ、この土地の“声”を聞きに来た」
「変わってるね。でも、悪い人じゃなさそう」
紬はそう言って、笑った。素朴で、まっすぐな目。
そして、その目の奥には、何か強い意志が宿っていた。
彼女は小さな森の保全活動をしているという。学校の課題をきっかけに、数年前から木の苗を植えたり、病気になった樹木の観察記録をつけたりしているらしい。
「ここ、昔は“緑の回廊”って呼ばれてたんだよ。動物たちが山を越えて移動できるルートだったの。でも、もうだめ。木がどんどん枯れて、動物も減って……」
「それを、君一人で守っているのか?」
「ううん。おじいちゃんと一緒。でも、最近は入院しちゃって。だから今は一人。でも、やるって決めたから」
その声に、虚勢はなかった。
ただ、静かな決意と責任感――まるで、枯れかけた森の根にしがみつく命のように。
* * *
ガルドは数日、村に滞在することにした。
宿泊先は、使われていなかった山小屋を借りた。
誰も疑問を抱かず、誰も興味を示さなかった。
それがこの土地の“現実”だった。
その間、彼は紬と行動を共にし、森の内部に踏み込んだ。
樹皮が剥がれ、虫に喰われ、幹が空洞になった木々。苔むした倒木。水の枯れた沢。
“陸”の目には、この森がかつて命を支える豊穣の場であったことが、痛いほど伝わってきた。
「どうして、こんなことに……」
ガルドがつぶやくと、紬は静かに言った。
「人間が、木を切りすぎたから。それと、温暖化で虫が増えた。あと、山火事も二回あったの。町の人たちは、もうこの森をあきらめてる」
「君は、なぜあきらめない?」
「だって……」
紬はポケットから一枚の写真を取り出した。
そこには、幼い紬と、笑顔の老人――彼女の祖父らしき人物が写っていた。
その背景には、今は失われた緑の海原が広がっていた。
「私、あのときの森が大好きだった。風の音も、鳥の声も、木漏れ日も。だから、あきらめたくないんだ」
その言葉に、ガルドは沈黙した。
自然と人間の関係は、どこで壊れたのか。
それは“欲”だったのか、“無関心”だったのか。
あるいは“進歩”という名の誤解だったのか。
この小さな少女は、破壊された自然の中で、それでも守ろうと立っている。
それは、信念と呼べるほど強く、美しいものだった。
* * *
観察期間の終盤、紬はガルドに「最後のお願いがある」と言った。
それは、祖父が昔育てた“希望の樹”を見に行くことだった。
標高の高い尾根に一本だけ残された、樹齢百年のミズナラ。
「おじいちゃんが“あの木は生きてる証拠だ”って言ってたの。枯れてないかどうか、確かめたい」
早朝、二人は登山道を登った。道は崩れ、草木はやせ細り、空はどこまでも鈍く曇っていた。
そして三時間後――その木は、確かに存在していた。
立ち枯れた樹木に囲まれた中、たった一本だけ、真っすぐに空へ伸びていた。
葉はまだ青く、幹は太く、根はしっかりと大地に張っていた。
「……生きてる」
紬は目に涙を浮かべた。
「まだ、大丈夫だって……言ってくれてる」
そのとき、ガルドは心の奥底で“陸の鼓動”を感じた。
この木は、まぎれもなく“生きている”。
それは、希望の証だった。
そして、彼は初めて“観察者”ではない、自分自身の声を口にした。
「この森は、まだ終わっていない。君の手が届く範囲で、命は繋がっている」
紬は、泣きながらうなずいた。
「ありがとう、ガルドさん」
彼の中で、何かが変わり始めていた。
ただ見るだけではない。
ただ記録するだけではない。
この星の“陸”として――人の想いと、自然の命が交錯する場に、彼自身が動かされていた。
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