壱 ♦ 怪談好きの友人

俺は関健一(せき けんいち)。

台湾の淡江大学経済学科に通っていて、夏休みが終われば二年生になる。

大学近くのアパートで一人暮らしをしている。

夏休み中の自由参加の集中講義だが、単位を取るために出席することにした。


――昨夜、またあの悪夢を見た。


よりによって今日は一限目から授業があった。

おかげで午前中はマジでしんどかった。

寝不足の体には、真夏の太陽が容赦なく照りつけてくる。

友達を待ちながら、キャンパスの片隅のベンチに背を預け、ぼんやりと空を見上げた。

蝉の声が途切れ途切れに響き、湿った風が頬を撫でる。


やがて、林智樹(はやし ともき)が小走りでやって来て、笑顔で手を振った。

日本語学科の智樹は、夏休みなら基本的に学校に来ない主義だが、今日は昼ごはんの約束のため、わざわざ足を運んでくれた。


「よ! 待った?」彼は息を整えながら、明るい声を掛けてくる。


「来たか」


「うわっ、何その目。ひどいクマだな…また夜更かし?」智樹が覗き込み、わざとからかうような口調だ。


「ちげえよ……とにかく、行こうか」俺は目を逸らし、鞄を肩に掛け直す。


「はいはい。お昼、何食べよう?ラーメン?パスタ?冷やし中華?」


智樹は歩き出しながら、楽しそうに選択肢を並べる。


「うーん、わるい、今日は何かあんまり食欲がないけど…」


「じゃあ、カフェで軽く食べよう」智樹はあっさりと決めた。


「そうする」短く答え、俺たちは並んで歩き出した。


カフェの中は冷房が効いていて、外の熱気が嘘のようだ。

窓際の席に座ると、ガラス越しに陽光が白く反射している。


「お前、大丈夫か?顔色まで悪いぞ」智樹はメニューを手にしたまま、心配そうに眉を寄せた。


「悪い夢のせいで、あまり眠れなかっただけ」俺は水を一口飲み、わざと軽く言い流す。


「俺、アイスラテとハムのクロワッサンサンド。お前は?」智樹はメニューをチラッと見て、即行で店員さんにさらっと言った。

「アイスアメリカーノでお願いします」俺も続けて注文する。


「またあの夢か…そういえば、お前、あの部屋に引っ越してからじゃない?」智樹は視線を鋭くして探るように言った。


「…そうかな」曖昧に笑って答える。


夢のことは智樹にしか話していない。

お互い心理学に詳しいわけでもないから、深く話し合うことはなかったが――

やっぱり、ストレスのせいなのかもしれない。


「まさか事故物件とか?」智樹が肩を揺らして笑う。


「やめろよ……ほんと、そういうの好きだな」俺は苦笑し、手で軽く払いのける仕草をした。


「ふふふ。……そうそう、妹から面白い話を聞いたんだ」智樹が声を落とし、椅子の背にもたれる。


「どうせ怖い話だろ」呆れたように息を吐く。


目の前で、楽しそうに怪談を語ろうとする智樹を見ながら、

俺はふと昔を思い出した。


智樹とは、高校時代からの親友だ。

陽の光みたいに明るく、誰とでも打ち解ける性格。

ただ――大の怪談好きという、少し変わった一面もあった。


あの日もそうだった。放課後の教室で、何の前触れもなく智樹が言ったのだ。


「健一ってさ、お化けっていると思う?」


唐突すぎる問いに、俺はペンを止めて顔を上げた。


「え?うーん……科学的にはいないだろ。まあ、居たら面白そうだけど」


すると智樹は、嬉しそうに笑い、机を軽く叩きながら、「仲間!」と言った。


それ以来、智樹は折に触れて俺に怪談をしてくれるようになった。

夏の帰り道、コンビニ前のベンチ、文化祭の準備中――場所は問わず、話は始まる。


ある日、教室の後ろの席で、俺と智樹は向かい合っていた。

机の上には、飲みかけのペットボトルと、買ったばかりのアイスコーヒー。


「ってか、彼女とか女子になら怪談が人気だろ。なんで俺に話すんだ?」

俺はストローで氷をかき混ぜながら、怪訝そうに智樹を見た。


「いや、女の子に怪談を言ったら、だいたい『ぎゃ〜!』とか『こわい〜!』って騒ぐじゃん。あれ、なんか違うんだよな……。怪談は“怖い”じゃなくて、“面白い”なんだよ」智樹は肩をすくめ、ニヤリと笑う。


「それに、お前の薄〜いリアクションがいい!」


「変なやつだな」


「変で結構!」智樹は笑いながら、机を指先でトントンと叩き、「冷静なお前と理性的に討論し合うのも楽しいんだよ。僕にとっては」


「へぇ……」俺は呆れ半分、笑い半分で答えた。


――そうやって、あの頃から智樹は俺だけに怪談をしてくれた。

どこにいても、彼の声色は楽しげで、俺はいつも半信半疑で聞いていた。


カラン…と、客がカフェに入ったときのドアベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

窓の外では真昼の陽射しが白く揺れていた。

ちょうど注文した品も運ばれてくる。

冷房の風が足元を撫で、グラスの中で氷が小さく鳴る。


意識が現在に引き戻され、目の前の智樹に焦点が合う。


「まあまあ、聞けって。――それはね……」


智樹の声が、カフェのざわめきからゆっくり切り離されていく。

グラスに口をつけたまま、俺は耳を傾けた。

 

 

 

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