弐 ♦ 背後からの気配
「――それはね、妹の実体験なんだけどさ」そう言って、智樹は身を乗り出す。
妹は明るく元気な性格だが、霊感については――普段ははっきり感じないらしい。
それでも、ごくたまに「変な感覚がある」とか、「うす暗いモヤのようなものを見た」ことがあるという。今までにそんな体験は、三、四回ほどしかないという。
これは、そのひとつだ――と、智樹は言う。
あの日、妹はバイト帰りに、
久しぶりに友達二人と映画を観に行く約束をしていた。
場所は、映画館の入っている、某有名デパートだ。
上映前に、三人で晩御飯を食べて、
おしゃべりをしたり、デパートの中をうろうろ歩き回ったりして、
にぎやかで楽しい時間を過ごしたという。
やがて夜も遅くなり、四階にある映画館へ向かい、深夜上映の映画を観た。
笑ったり驚いたりしながら、最後まで三人で楽しんだという。
映画が終わったのは、夜の十一時半ごろだった。
その時間にはもう、デパートの営業は完全に終了していて、
店内の通路やエスカレーターはすべて封鎖されていた。
外へ出るには、映画館から直通している四台のエレベーターを使うしかない。
三人はまだ興奮気味で、映画の感想を話しながら笑い合い、
エレベーターの前まで歩いていった。
そのあたりは、同じように映画を観終わった人たちで混み合っていて、
ざわざわとにぎやかで、あちこちから話し声や笑い声が聞こえていたという。
スマホを見ている人、友達同士でふざけている人、「あれ面白かったね!」「飲みに行かない?」なんて声も、はっきり聞こえていたそうだ。
ところが――
「エレベーター、遅いね」
「全然来ないね」
なんて言いながら待っているうちに、妹はふと、
まわりが妙に静かになっていることに気づく。
さっきまで、あれだけ人がいたのに……
誰の話し声もしなくなっていて、
笑い声も、スマホの光も、どこにも見えない。
まわりを見回すと、そこにはもう、妹と友達の三人だけが立っていた。
さっきまで確かに大勢いたはずなのに、
どこへ行ったのかも、いついなくなったのかも、わからない。
「……あれ?さっきまで、人、いっぱいいたよね?」
「本当だ。エレベーター遅すぎて、私たちが最後なんだ……」
「……さっきとのギャップが大きいね?」
友達と顔を見合わせたそのとき――
エレベーターが、ひとつだけ、音もなくするりと開いた。
三人はなんとなく急いで乗り込む。
その場を早く離れたくなったのかもしれない。
妹は、エレベーターのいちばん奥に立った。
背中を壁にぴったりとつけるようにして、寄りかかる姿勢で立っていたという。
ドアが閉まり、エレベーターがゆっくり動き出した、そのとき――
妹は、ふと背中に、
ぞわっと冷たいものが這い上がるような、生理的な寒気とは少し違う感覚を覚える。
後ろは壁で、スペースなんてまったくないはずなのに……
その瞬間、
自分の影が、前の床にじわじわと広がっていくような、そんな気配を感じたという。
――いや、影じゃなかった。
黒い“何か”が背後から覆いかぶさってくる。
呑まれる……。
重苦しい圧迫感に、視界がじわじわと狭まっていく……。
ふと、黒いのは――手、なのか?
まるで妹におんぶさせるかのように、背中にのしかかってこようとしている……。
そして同時に、
身体がふわっと浮くような、軽いめまいも起きたらしい。
しかし、友達がすぐそばにいたこともあり、
エレベーターはすぐに一階に到着した。
そして――さっきまでの不調は、噓のように跡形もなく消えていた。
エレベーターを出て、おそるおそる振り返る。
だが、そこには影も、黒いモヤも……何もなかった。
そのとき妹は、
「バイトのあとに深夜映画なんて……さすがにきつかったのかな」
「ちょっと疲れていただけかもしれない」
そう思って、気にせず家へ帰ったという。
……そして翌朝のことだ。
妹が何気なく見ていたテレビのニュースで、こんな内容が流れた。
「昨夜遅く、○○デパート一階の女子トイレで、清掃スタッフによって、首を吊って亡くなっていた女性が発見されました……」
妹にはその後、特に悪いことは起きていない。
あのとき妹が感じた不調が、その出来事と関係しているのかどうか――
それは、今でもわからない。
けれど、あの静まり返った空間のことと、
ぞわりと背中を撫でたようなあの感覚だけは、はっきり覚えているという。
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