第9話 夕暮れの海
日が傾く頃、アクパーラ2に一隻の漁船が接近していた。
時刻は午後三時、ハオランがアクパーラに滞在してから二度目の夕焼けだ。
「旦那、そろそろ着くよ」
漁船を操縦していた漁師が、船室を覗いて乗客に告げる。
ほどなくして、ハオランは船室から背中を丸めて出てきた。その顔を、眩むほどの綺麗な夕焼けがオレンジに染める。
反射的に手で夕日を遮りながら、彼は数百メートル先でそびえ立つ巨大建築物を見た。
「あんた本気で行くのか? あそこに行ったやつは誰も戻ってきてない。引き返すなら今のうちだぞ」
漁師がハオランに忠告するのはこれで三度目になる。
「忠告は感謝するけど仕事なんでね。そうも言っていられないんだよ」
ハオランは身に纏った黒のコンバットスーツの最終点検を行いながら三度目の警告無視をした。
「というか、あんたサイボーグだろ? 泳げるのか?」
漁師が疑問を口にする。それも無理はない。一般的に、サイボーグは水を嫌うと思われている。肉体を機械へ置換すればするほど、重量が増加していくからだ。
黎明期には、肉体労働者を中心に不幸な事故が多数報告されていた。人の枠を越え、過酷な環境でも簡単に作業ができるようになったが故の慢心だった。
建材を支えようと、サイバネの負荷重量を見誤り押し潰された者がいた。生身の感覚のまま水に飛び込み、浮き上がれず溺死する者もいた。
生身の人間の何倍もの事故発生率に、サイボーグは初めてサイバネを導入をした時にマニュアルを渡されるようになった。サイバネ専門の診療科で、身近な危険を叩き込まれるのだ。
サイボーグたちは、先人たちが積み上げてきた無数の悲劇的事例の上に立っていた。
「情報が古いな。今時のサイボーグは浮けるんだぜ」
そして時代は変わった。今や一般的なサイズのサイボーグの重量は、事故が多発していた頃の半分にまで軽量化されていた。
「へえ、そりゃいい。親父の兄弟が生きてる間にそうなってくれてればもっと最高だったんだがな」
漁師は反応に困ることを言ってあっけらかんと笑った。
「とにかく、俺が船から降りたらすぐにここを離れてくれ」
「あんたもしつこいね。言われなくてもそうするよ。魚でも釣りながら帰るさ」
どっこいしょ。そう言いながら漁師は船の縁に腰かけて網の修繕を始めた。その口にはいつの間にかタバコが咥えられている。
「仕事熱心だな。漁師の仕事は儲かるかい」
「いいや全然。天然はもう滅多に取れないよ。だからここらの漁師は、俺含めてみんな養殖場からの魚の運搬か観光客向けの遊覧船レンタルをやってるよ。それでもやっぱり昔が忘れられなくてね、こうやって網の修理ばかりやってる ……もう使う機会なんてないのにな」
漁師は煙を吸い込みながら、寂しそうに海を見つめた。どこかから海鳥の鳴き声が聞こえてくる。
度重なる水産資源採取の大幅規制と、養殖技術の発展により、漁業は風前の灯だった。
もはやかつてのように網を投げて大漁の魚を採るような光景は見られない。
それでも、彼の目には、いまでも自信に満ちた海の男たちの駆る漁船が、風にたなびく大漁旗が、誇らしげに映っていた。頭ではわかっていても、あの栄光の日々を忘れることなど彼にはできなかった。
穿った見方、というものだろうか。座り込み海を眺める漁師の姿が、ハオランの目には来る未来から目をそらし、過去に囚われる哀れな男のようにも見えた。
誰にでも忘れられない思い出がある。みんなそこに帰りたいのに、二度と帰ることのできないつらく甘美な思い出を持っている。
過去がいつまでもつきまとってくると愚痴るやつがいた。だが、ハオランに言わせればそれは間違いというものだった。
過去はつきまとうことなどしない。過ぎ去ってしまった時間は離れていくだけだ。なのに人間が過去を手放す事を恐れるから、いつまでも忘れられないだけなのだ。
ハオランは立ち上がった。その顔に、オブシディアン球体めいたフルフェイスヘルメットを装着して。
光すら通さないほどの黒い輝きのヘルメットからは、ハオランの表情は読み取れない。
「行くのかい。それならちょっと待ちな」
漁師はハオランを呼び止めてから、操舵室に引っ込んだ。
「? なんだ」
ハオランが振り返り、漁師の様子を見る。
漁師が操舵室から出てきた。その両手には、小石が握られている。
「この辺での験担ぎさ。商売繁盛や無事を願ってやるんだ。せっかくだからな、これくらいやらせてくれ」
ハオランは漁師の好意を受け入れることにした。他者の内面に踏み込み伝統を否定するほどハオランは野暮ではなかった。
ハオランは船の縁に立ち、暗い海を見つめた。その身に纏うのは全領域対応のコンバットスーツ。抱えているのは小型のアクアバイクだ。
ハオランが漁師に向かって頷く。漁師は火打ち石を叩き発生した火花をハオランの背中に振りかけた。
いざ出撃の時。ハオランは小石を投げ込んだような静かな音で、海へと潜っていった。
沈んでいくハオランの様子を確認した漁師は、新しいタバコに火をつけてから、船を発進させた。後には穏やかな海だけが残った。
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