第10話 海底の燐光
ハオランは、海に潜ると同時に水平姿勢になった。すぐにアクアバイクのモーターを起動すると、バイクのフィンが回りはじめた。
アクアバイクは水中専用のマシンで、その見た目はモーターバイクを前後に切断して、その前側部分に胸を置くための小さなサドルと推進用のフィンを取り付けたような奇妙なものだった。
バイクのハンドルを前に捻るとバイクが前進をはじめる。ここからは少しの間一人旅だ。
「こちらウォルフ1、現在アクパーラ2への侵入ルートを進行中」
通信機に呼び掛けると、すぐにスミカの返事が聞こえてきた。
『了解、ウォルフ1そのまま進路を維持して。予報では海の天気は落ち着いているようだけど、そっちはどう?』
アクパーラの管制室でハオランの行動をモニタリング中のスミカは、管制室のモニターに映る情報と実際のハオランの様子に解離がないか注視していた。
「問題なし。水の流れは穏やか。この分なら少し早めに到着できるはずだ。暗視装置も正常に起動中。よく見える」
ハオランの目には、海は真っ黒ではなく灰色に見えていた。ヘルメットの暗視機能が、アクアバイクに搭載した赤外線ライトの明かりを増幅しているおかげだ。
現在ハオランが目指しているのは、メンテナンスシャフトだ。仕事を始める前に確認した見取り図によれば、シャフトはアクパーラ2の上部構造体の底部に位置していた。
底部は海中に沈んでおり、密かに侵入するにはぴったりのルートだった。
「しかし、ほかにもう少し方法はなかったのかね」
ハオランは眼下に広がる深淵を見ながら、自身の選択に若干の後悔を覚えながら呟いた。
『あら、なら他にどんなやり方があったわけ? 船で正面から入港する? 駄目ね、以前に向かった人たちは正面からいってみんな帰ってきていない。それなら空は? ご自慢のエグゾアーマーなら飛べるでしょうけど、あいにく修理中。だからこれも無理。だから水中からの侵入が一番確実よ。あなただって賛成したじゃない』
スミカは的確にハオランの痛いところを突いてくる。彼女が言う通り、取れる手段はそう多くはないのが実情だ。多少のリスクは受け入れねばならない。
しかしだからといって愚痴ってはいけないわけではない。心情の自由くらいは許されてもいいはずだ。気持ちを素直に口にすることで、不安が紛れることもある。少なくとも、ハオランはそういうタイプだった。
「それはそうなんだが、実際に潜るとどうもな。落ち着かない」
辺りを見ても何もない。時折、魚の群れとすれ違ったりする程度だ。しかし、何か違和感があった。じっと見つめられているような本能に訴える何かを潜ってからずっと感じていた。
『わかった。何だかんだ言って水が怖いんでしょ』
スミカが声を弾ませてハオランをからかう。
ハオランは否定をしようとするが、スミカはそれを遮り話し続けた。
『サイボーグなんだから、水中が怖くて当然よ。誤魔化さなくたっていいんだから』
いつも子ども扱いされている仕返しなのか、ここぞとばかりにスミカのからかいは続く。
「お子ちゃまめ、自分が不安だからって他人もおんなじだと考えるのはいけないな。もう一緒にホラー動画見てやらないぞ」
ハオランは言い返した。彼には、スミカが不安の裏返しで過剰なまでに明るく振る舞っていることがわかっていた。大抵の場合、スミカが人に対して恐れの気持ちを指摘するのは、自分自身が不安な時なのだ。
『……それは困る。ごめんなさい』
一人でホラー動画を鑑賞している姿を想像したのか、スミカは声のトーンを落とした。
「素直に謝れて偉い! なあに、安心しろ。必ず仕事は成功させてやる。だからしっかり援護してくれよ、お姫様。おっと、そろそろ目的地だ。無線を閉鎖。侵入成功後に別回線から連絡する待っていてくれ」
『ええ、期待してる。頑張って。通信終了』
通信が終了した途端に、周囲が一気に静かになった。ひどい圧迫感を感じる。海水のゴボゴボとした音や自分自身の息づかいの音がやけに大きく聞こえる気がする。
水深的にありえないことだとわかっていても、全身を包む膨大な量の海水が何かの拍子に自分に襲いかかってきて潰されてしまうのではないかと、ほんの一瞬だけ錯覚しそうになる。
まるで世界に自分だけしかいないかのような孤独感を払いながら、ハオランの操縦するアクアバイクがアクパーラ2の底部に到達した。
バイクが速度を落としながら、目的のメンテナンスハッチへと接近する。ハッチの位置からぼんやりとした光が見えた。ぽっかりと口を開けた縦穴を覗き込んでから、ハオランはゆっくりと穴を上っていった。ぼんやりとしていた明かりがだんだんとはっきりとしてきた。
二メートルほど穴を進むと海水に満たされた空間に終わりが見えた。
ハオランは、いまだ続く縦穴の底にある水面から、ゆっくりと顔を出して周囲の様子を伺った。縦穴は無人で、耳を澄ましてみても聞こえてくるのは水の滴る音だけだった。
だが油断は禁物だ。用途不明の配管が室内を巡っているせいでシャフト内は見通しが悪い。そのせいで、あちこちに人が隠れるのに十分なスペースがある。仮に誰かが隠れていても、すぐに気付くことは難しいだろう。
一刻も早く動き出さなければならないと判断したハオランは、極力音を出さないように水面からシャフト内に這い上がった。そして身を屈めた状態のまま、アクアバイクも引き上げようと水面を覗き込んだ。
その時、水面の奥底にはっきりとした燐光が見えた。
はじめはその光がシャフト内の照明を水面が反射しているだけかと思ったが、上を向いてもそれらしき強い光を放つ照明は見当たらなかった。
もう一度燐光を見る。寒々とした青白い光は、ぼんやりとしていながらもどんどんとその眩しさを増している気がした。
<なんだあの光は? まさか故障か>
ヘルメットの故障を疑ったハオランは、燐光を直接見るために、網膜に映るディスプレイから操作をして、ヘルメットを脱着した。
空気の漏れる音がする。鏡面のようなヘルメットは前後に分割され、湾曲したプレート状になってコンバットスーツの内部に収納された。
素顔を露にしたハオランは、水面から漂ってくる強烈な磯の香りに顔をしかめながら、再び水面を覗き込んだ。
燐光は未だに健在だった。その光は、消えることも大きくなることもなく、ずっとその場で光り続けていた。
<入ってくる時はなかったはずだが……>
言い様のない迫力が燐光にはあった。そんなことをしている時間などないはずなのに、この時だけは、自分の中の優先順位が異常をきたし、あの燐光の正体を知りたい。もっと近くであの光を見てみたい。そんな考えばかりが頭を支配していた。
その時、耳小骨が震え、ハオランの網膜ディスプレイにタイマーが表示された。
ハオランは我に返った。タイマーは、アクパーラ2への侵入の目安となるタイムリミットを設定していた。ハオランが予定よりも少し早くメンテナンスシャフトに到達していたため、今ごろアラームが作動したのだ。
彼は深呼吸をして気持ちを落ち着かせようとした。自分は海洋学者ではない。それに、今は優先して取り組むべき課題がある。意識的にそう考えることで、ようやく海中の謎の燐光の事を頭から追い出すことができた。
<嫌な気分だ。それにこの腐ったような臭いも最悪だ>
呼吸は荒くなり、心拍数が上がっていた。汗を流す機能が残っていれば、きっと脂汗が浮かんでいたことだろう。
ハオランは短時間で落ち着きを取り戻すと、中断していた作業を再開させた。
まずは装備の準備をする必要がある。ハオランは、アクアバイクを人目につきにくそうな物陰に置いてから、バイクに装備していた防水ポーチの留め金を外した。
その中身は、消音器一体型の大型自動拳銃だ。サイレントアサシンの愛称を持つこの特殊用途向け拳銃は、ビンソンが用意してくれたものだった。予備の弾倉は二本。調査して帰ってくるには十分過ぎる重武装だ。
そしてもう一つのポーチからは、ビンソンの分身であるらしい鉄球を取り出した。彼曰く、このボールがハオランたちの助けとなるらしい。
<では、お手並み拝見。>
半信半疑になりながら、ハオランはボールを起動してから床に転がした。
ボールはころころと床を転がり続ける。そのカメラアイに緑に光が宿る。すると、丸い硬質ボディが突然跳ねた。
ハオランは咄嗟に防御姿勢をとった。サイボーグでも、広いとは言えない空間で鉄球に跳び回られたら無傷ではすまない。
とんだ不良品をつかまされたと、ハオランは舌打ちをしそうになった。だが、ボールは予想に反して暴れまわることはなく、空中で制止したかと思うと、ふよふよとハオランに接近してきた。
ハオランがボールから視線を逸らさずにいると、ぐるぐると動き回っていたボールのカメラアイと視線が交わった。そして、それは喋り始めた。
『ハローワールド! かわいい俺ちゃんのお目覚めやで!』
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