28.1945年(春和元年)9月 アフワーズ②

 月光が格子窓の影を絨毯に作る。


 マコトは絨毯の上に敷いた寝具の上で寝返りを打つ。


 腕の中に温もりがないのはいつぶりだろうか。


 手を伸ばせば届くけれども、指先に薄布が触れる。


 綾小路が『御帳台みちょうだいの代わりです』と、洗濯用のロープを張り、大判の布で間仕切りを作った。


 睦子はその向こう側のベッドにいる。


 スマトラからイランまでの船旅では、睦子ちかこに望まれるがままに、添い寝をしていた。


 二段ベッドの下段は寝返りも打てないほど狭く、男女の関係はなくとも、身体は触れ合う距離だった。


 二人の距離はどんどん曖昧になっていった。


 あまり良くないことだとわかっていたから、本来は布を一枚隔てるぐらいで丁度いいはずなのに。


 その距離に寂寥感を覚える。


 マコトは伸びて目元にかかる、少し癖のある栗色の髪を掻き上げた。


 月光で青白く照らされた白漆喰の天井は、木の梁の線が浮かび、所々が波打っていた。


 下げられた薄布と反対側の壁際にあるベッドで、綾小路は寝息を立てている。


 だが、薄布の向こうからは寝息が聞こえない。


 起きている者の呼吸音が聞こえる。


「眠れないのか?」


 ごく小さく、マコトは睦子に問いかける。


 起き上がり、薄布に手を伸ばし、触れる。


 少し遅れて布越しに指が重なる。


 こちらは月光で明るいが、睦子がいるあちら側は暗い。


 だから、こちら側からは見えないが、睦子からは、薄布越しにマコトの姿が見えているはずだ。


 直接触れられない焦燥感を抱えながら、マコトは向こう側にいるはずの睦子を見上げる。


 布越しに手を握ろうとした。


 だが、指の感触が唐突に消える。


「お手水ちょうずに行くから、護衛をお願い」


 そう言って、睦子は布の端から姿を現す。


 部屋を静かに抜け出す。


 白いコットンのネグリジェを翻して、夜の回廊を歩く。

 

 肩の上で揺れる黒髪は月の光を反射して輝く。


 その美しい黒髪は、少し手を伸ばせば届く距離にある。


 睦子が振り返る。


 三白眼気味の大きな目を細め、黒曜石の瞳に妖艶な色を滲ませる。


「何かしら? 私の髪に何か付いているの?」

「いや、何も……」


 睦子はクスリと小さく笑う。


 ━━ああ。


 マコトは心に『役』の薄布を纏うようにして『自分自身』と混ざってしまわないように、境界を作っているのに。


 彼女はその薄布をやすやすと取り払ってしまう。


 心の隙間に滑り込むのがあまりにも上手い。


 天性の色香とそれを魅せるために計算された演技は、容易く人の心を揺らす。


 ━━目が離せなくなってしまう。


 マコトは、高貴な悪女の術中に既に半分落ちている。


 彼女は回廊を進み、トイレには向かわず、中庭に出た。


 青いタイル張りの小さな噴水から絶えずささやかな流水が零れ落ちている。


 睦子はマコトに向かい、手を差し伸べた。


 長い睫毛に縁取られた黒曜石の瞳が、マコトを映す。


 「こちらへ。噴水の近くまで来て」


 噴水の側まで行くと、睦子は少し背伸びをしてマコトの肩に腕を回す。

 

 首に吐息がかかる。


「ねえ、このまま聞いて答えて。あなたは綾小路のことをどこまで知っている?」


 顔を傾け、耳元で囁く声は、吐息混じりで甘ったるい。


 だが、内容に甘さはなかった。


「……子爵家の次男で、東京帝大法学部二年次で高等試験外交科合格、イラン大使館とトルコ大使館で書記官を務め、その後は外務省調査局二課でソ連及び中東方面の情報分析を担当し、今年二月にあなたの外交顧問に。他にも一通りの経歴は知っているが……」


 マコトが嘆息して、小さな声ですらすらと答えると、睦子は微かに頷く。


「じゃあ、彼が丹羽宮首相の学友で、摂政久慈宮とも友人であることは知っているわね?」

「ああ……」

「綾小路は彼らの手の者よ。敵か味方か、わからない。だから、これから密談をするときは逢引をしているふりをするわ。だからわざと私があなたに恋をしているように見せたのよ」


 ━━これは恋の『ふり』なのか。

 

 その意味を理解した瞬間に、マコトは己の自惚れと浅はかさを恥じた。


 そして、ああ、今日の綾小路の前での態度も『計算された演技』だったのか、と小さく落胆する。


 そして、落胆した自分に少し驚く。


「……夫婦の役に呑まれてたんじゃなかったのか……」

「あら、その方がよかった?」


 マコトが呟くと、睦子は飄々と言う。


「……お前は俺よりよっぽど諜報員に向いてる」

「それは褒め言葉なのかしら……?」

「褒め言葉だ。すっかり騙されていた」


 どこからが嘘で、どこまでが真か。


 何が真実で、何が演技か。


 ただし、もしも、恋が真実だった場合。


 それをお互いが確認すれば、その瞬間に、すべてが崩れる。


 女帝の恋は『罪』。


 だから、今は『嘘』と信じたほうがいい。


 たとえこの恋が『真』だったとしても。


 抱えているこの気持ちが、恋、と呼べそうなものであったとしても━━。


「……この先、もう何の伝手つてもない俺は諜報員としてはあまり役に立たないからな」


 低く囁くマコトの肩に、睦子は額を当てる。


「イスタンブールまで守ってくれるんでしょう?」

「ああ……」

「それを反故にしないでね。それでいいから」

「ペルシャ語とアラビア語とトルコ語は片言程度しか出来ないぞ」

「十分よ」


 睦子は小さく息をつく。


「丹羽宮首相は、おそらく、私のことをあまり快くは思っていらっしゃらないから」

「元婚約者にどんな仕打ちしたんだよ……?」


 丹羽宮泰彦首相は睦子の元婚約者だった。

 戦況悪化を理由に結婚延期が発表され、睦子の践祚せんそと同時に婚約破棄が発表された。


 睦子は黒揚羽のようにはためく長い睫毛を伏せて、吐息を漏らす。

 妙に色っぽい仕草だったが、唇から零れ出た言葉は予想外のものだった。


「のっぺりした『馬面』が好きになれなかったのよ」

「『ウマヅラ』……?」


 確かに丹羽宮泰彦は瞼がやや重い印象で、顔が面長だった気がする。


「いや、少し面長だが『馬面』は失礼だろう。男らしい精悍なお顔立ちじゃないか……?」


 マコトにとっての丹羽宮の印象はこうであった。


 しかし、睦子にとっては違ったらしい。

 

「精悍な雰囲気で誤魔化しているのが、余計に気に食わないの。顔の造作が綺麗じゃないと好きになれないの。だからお父様……先帝にゴネにゴネて、戦況悪化を表向きの理由にして、結婚延期を勝ち取ったの」


 マコトは呆れて一瞬、返答に困る。


「それは……救いようのない面食いだな……」


 彼女は高貴だが、時々とても俗物だ。


「あと、丹羽宮は芸者の愛人と切れてないし」

「いや、先に問題にするのはそっちだろ……」

「あなたぐらい顔が良ければ、そちらは目をつぶったわよ」

「目をつぶっちゃ駄目だろ、それは……」


 だが、なぜか憎めない。


 俗物であることすら、魅力に変えてしまう。


 耳元でクスクスと笑う涼やかな声が、心を揺らす。


 腕の中の温もりを、手放し難いものにさせる。


 本当は手が届かないと、わかりながら。



 ━━悪い女帝の術中に落ちてしまう。



 ━━恋をしてはいけないのに。



 恋になれない囁きを、噴水の音が掻き消してくれる。


 綾小路が『こんなところにいましたか』と柔らかな言葉に棘を隠して言うまでは。


 二人は月下で逢引の『ふり』をしていた。

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