27.1945年(春和元年)9月 アフワーズ①

「お上がご無事であらせられること、恐悦に存じます」


 アフワーズの宿で、MI6の二人を中庭を挟んだ別室へ案内してから。


 マコトと睦子ちかこがいる部屋へ戻り、扉を閉めた綾小路は、土下座、いや、平伏した。


 そして、奏上する。


大宮寺だいぐうじがまさか、お上に恋慕の情を抱きながら、クーデターのような愚行に及ぶとは、夢にも思い至らず、先に上海を離れた不忠、不徳の至り、まこと申し開きもござりませぬ。この綾小路実頼さねより、命を賭してお上をイスタンブールへお連れする算段を整えております。どうか、それまでの間、お沙汰は今しばしの猶予を。畏れながらお上の御慈悲を賜りたく、伏してお願い申し上げます」


 お上、と帝を指す公家言葉の尊称で呼ばれた睦子は、困り顔で綾小路に声をかける。


「綾小路、大宮寺の恋慕の情とか、今、言わないで……彼が聞いてるじゃない」


 そう、これは睦子が頑なにマコトには語ろうとしなかったこと。


 上海萬陽ホテルにいた好青年━━だった男、海軍侍従武官の大宮寺は女帝である睦子に恋慕の情を抱いていたらしい。


 外交顧問で側近の綾小路は、把握していて当然だろう。

 マコトも当時の状況分析や、その後の睦子の態度から、何となくは察していた。


「過去にあなたが、どんな恋愛をしていようが、俺は気にしないが……?」


 マコトは特に感情を乗せず、淡々とした声を出したつもりだ。


 すると睦子は両手を胸のあたりで組んで、マコトを上目遣いで見上げた。


「あのね、恋愛とか、そんな大げさなものじゃないの。ほら、彼、ちょっとお顔立ちが良かったでしょう? ほんの少し揶揄からかっただけなの」


 真っ直ぐな黒曜石の瞳が、少々わざとらしい。

 猫撫で声が、あざとい。

 

「あなたの悪質な『気まぐれ』ですか?」


 なので、マコトは思わず冷ややかに言ってしまったが、睦子はめげずに小首を傾げた。


「でも、夜に書斎にしていた部屋に呼んで、お茶を淹れてもらった程度よ」


 睦子の言い訳に、綾小路は顔を上げ、少し遠い目をして補足する。


「思わせぶりな言動とは裏腹に、指一本触れさせない悪辣さ……お上のお立場では当然であらっしゃいますけど。後、ソ連外交官っていうあんたが来てから、お上はピタリとそういうことはおやめあそばされましたが」


 想定していたよりも悪質に弄んでいたみたいだな、とマコトも遠い目をした。


 マコトが来るようになってから睦子は大宮寺に対する興味を失った━━。


 それは、大宮寺からすれば突然の心変わりに見え、大層、屈辱的だっただろう。


 睦子からすれば、新しく面白そうな玩具が来たから、飽きたに過ぎないとしても。


 上海での大宮寺と上海海軍陸戦隊のクーデターは、睦子の自業自得だったのではないか、そんな考えがあの夜の光景とともに、マコトの脳裏に過った。


 ただ、女帝という立場上、はっきり拒むことも出来なかっただろうから、情状酌量の余地はあるのかもしれない。


 睦子はため息を一つついて、首を横に振った。


 そして、マコトにぴったりと寄り添う。

 

「でも、こんなにくっついたり、耳元で囁くのはあなただけよ。信じて」

「信じてって……何を?」


 睦子は過去の失態を少しも悪びれていない。


 悪かった、と思っているようには見えない。


 いや、悪かったとは思っているから、後ろめたくて語らなかったのだろう。

 

 だが、反省はしていない。


 うまく誤魔化そうとしているようにしか見えないし、何なら『次こそはうまくやろう』ぐらいの心意気を感じる。


 マコトは『やはり情状酌量の余地はないのでは』と、いささか困惑する。


 綾小路は怪訝そうに眉を寄せて、元々毛糸程度の太さの目を細め、より細いミシン糸のような目になった。


「ちょっと、なんや知らん間にイグナチェフ氏、ちゃうわ、『澤城さわしろさん』はお上の価値にお気づきにならはったんですか?」 


 マコトを上海での偽名からわざわざ本名で呼び直した綾小路の声からは、スゥと温度が失われた。


「……お上、淑女たる者、今のお振る舞いは、はしたなく存じます。恐れながら、お退きあそばせますよう、お願い申し上げます」


 そして、綾小路は睦子に諌めるように言う。

 

 睦子は、いいえ、と首を横に振る。


「今は彼と夫婦役をしているから、ボロが出ないように、いつもこうしているのよ」


 睦子は離れるどころか、胸を押し付けるようにマコトの腕に抱きつく。

 振り払ったら許さないわよ、と上目遣いの黒曜石の瞳は、無言の圧力を放つ。


「……ずいぶん熱のこもったお芝居であらっしゃいますな」


 綾小路は睦子ではなく、マコトを睨みつける。


 睨む目は細くて感情が読み取りにくいはずなのに、明確に『貴様、何をした?』と刺々しく問うている。


 マコトは軽く息を吐き、睦子の耳元に顔を寄せる。


「……演技にしては、やりすぎだ」


 囁きに、睦子の肩がわずかに跳ねた。

 それでも腕は離れない。

 

「『澤城中尉』殿、ちょっと、よろしいやろか? どういうことでっしゃろか、このお上のご様子は?」


 綾小路は、名字に陸軍での階級を付けて呼び、マコトに問いかけた。

 

 柔らかな西の方言には、目と同様に隠しきれない棘がある。


「俺の素性をいつ、どこで聞きましたか? 綾小路殿」


 マコトは質問を質問で躱して、綾小路に顔を向ける。


「特務機関『不二組ふじぐみ』の藤木中佐さんから。昆明こんめいからの航空便を手配して貰いましたんで、そのときに」


 つまり、素性についてはほぼ丸裸である可能性が高い。

 直属の上司である藤木が、必要な情報として流したのなら仕方がない。


「お上のお側に侍る人間がどこの馬の骨ともわかりゃしまへんのは、困りますから。あんたの毛並みがそこまで悪うないのは存じております」


 それは、『毛並み』が決して良くもない、と知っている、ということだ。


「父は長州士族の陸軍軍人、母は英国人で貴族の血を引く商人の家系、それで間違いないやろか?」

「ええ、間違っていませんよ。父母はどちらも既に鬼籍に入っておりますが」


 マコトは頷く。

 綾小路は立ち上がる。


「お上に国境を越えていただくには、英国と二重国籍のあんたの妻、という形をとるしかないんです」


 睨めつけるように綾小路はマコトを見上げる。


「せやけど、思い上がらんといてもらいたい」


 声の高さが明らかに下がった。


「あんたが真にこの方を娶ることは叶いまへんよ。男系のれっきとした皇族、丹羽宮にわのみや様ですら、女帝は生涯独身、その慣例に従うて婚約を解かれたんやから」


 暗に『身分差』を提示するように綾小路は言う。

 本来は触れることなど許されない、と言いたげに、蔑むような視線をマコトに送る。


「……承知しております。任務ですから」


 マコトは静かに目を伏せた。


 腕に絡まる睦子がピクリと震える。


 綾小路は短く息をつく。


「わかってるなら、ええ。イスタンブールまで、よろしゅう。無事に着きましたら、こちらであんたの行き先の段取りはつけますさかい━━」


「……勝手に決めないで、綾小路」


 か細い声が遮った。


 睦子が綾小路を睨むように見上げる。


 綾小路がため息をついて首を横に振る。


「お上。お上は誰のものにもなられへんのですよ」


 綾小路の声と目には、睦子への厳しさと哀れみが同時に滲んでいた。


 君主の不徳を諌める臣下の責務。


 個人的な少女への同情。


 この立場から、彼女を逃してやれないと知っている者が向ける、静かで残酷な同情が染み出していた。


「澤城を困らせてはなりません。離しておやりなさいませ」


 睦子は俯き、唇を噛む。


 マコトの腕から力なく睦子の腕が解けた。

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