第48話
一月下旬になるとようやく文遠の傷を縫った糸もはずれ、包帯もとれた。
が、かなり派手に傷跡が残っているのにかすかに子賁が眉を顰める。
「娘子ではあるまいし、そんな顔をするな」
と文遠に言われてしまい、「腕上げると引き攣れそうだと思っただけだ」とぶっきらぼうに返す。
「方向によっては確かにな。だが弓を引くのに問題はない」
袖に腕を通しながら文遠にそう言われ、「んじゃ久しぶりに剣で手合わせする?」というと「面白い」と返してきたのでそうなった。
場所は城の内門前。
文遠との手合わせは当然数えきれないほどしている。
が、剣を向け合い立つとやはり「かなわない」という気分しかない。
剣先のむこうにある目に隙を全く見いだせない。
ふっと踏み込み、上段から打ち込むのを軽く払われる。返しざまに右からくる横薙ぎを止める。激しく剣が鳴った。
息が止まるほど重い。
そのまま十撃程打ち合う。一撃一撃が重く、打ち合うたびに足が地面にめり込みそうな感覚にとらわれる。
昼の光の下、白虹を引いて剣が舞い踊る。
その流れのままに踏み込んで突きを繰り出し、そのまま払いながら地を蹴って後ろに飛び態勢を整える。次の瞬間文遠が歩を進めながら切りかかってくるのをとっさに高く跳んで避ける。
跳びながら狙うのは首と見せかけて背中のやや左より。左肩の可動域ぎりぎりだ。
が、振り向きもせず文遠が右手に持った剣で左肩越しに子賁の剣をはじく。
「うっ」
思わず子賁が呻く。空中では逃げようがない。詰んだ。
着地前に強烈な蹴りが襲ってきた。とっさに剣に左腕を添えて盾にする。
衝撃が全身を襲う。
激しく揺れる視界の中、文遠の目の色が変わっているのを見る。弱点になる左肩を狙われたところで理性が飛んだらしい。完全に手負いの獣だ。
息もできないほどに飛ばされ、地面に転がった。脳が揺れる。後ろに何もなくてよかった、と子賁はかすかに思った。石垣などがあれば叩きつけられていただろう。ひとたまりもない。
気が付けがあおむけで転がっていた。
目の前に広がる空が青い。ぽかり、と知らん顔で浮かんだ雲があまりに長閑だ。
と思っていたら暗くなる。
「子賁!」
横になったまま肩を揺さぶられる。ようやく視界がはっきりすると、文遠が肩を掴んで心配そうに覗き込んでいるのが目に入った。
「すまん、やりすぎた」
それに空を見たまま子賁がけろりと返す。
「この分じゃ左は大丈夫そうだな」
「けがは」
「平気だと思う。…が、俺でよかった。他の奴ならただじゃすまなかったな」
蹴りの瞬間に剣を挟んで防いでいたので衝撃だけで済んだ。そうでなければ腕か肋が逝っている。
ようやくくらくらしながら体を起こすと、文遠が手を出し助け起こした。
背中や髪の泥を払われながら周囲を見渡すと兵士たちが息をのんでこちらを見ていた。が、わぁっと声が上がる。
「すげぇいいもん見た」
「強ぇぇ」
それを見て子賁がからりと笑う。
「いい士気向上になったろ」
そういうのに文遠がため息をついた。
「体張ってまでやるもんじゃない…恭和先生に診てもらおう」
「…また説教だな」
やれやれと子賁は肩をすくめた。
文遠も大概強すぎるので、手合わせをできる人間がいない。貌利が最近相手をすることもあるらしいが、一度感想を聞いたところ絶望的な顔で「『もしかしたら勝てるかも』、が『ぜってえ無理』になっただけ」という模範解答を寄越した。
とはいえ貌利も文遠相手に怪我無く済ませられる人間という意味で、相当強い分類である。
城に入ると妙才が化け物を見るような目で二人を迎える。妙才の校尉も一緒だったが、まったく同じ目をしていた。
「…俺を巻き込むなよ」
「やりませんって。やりたいなら止めないですけど。あ、おひとついかがです?」
明るく茶菓でも勧めるように返す子賁に妙才が震えあがった。
「冗談はよせ、手の内分かっているお前でもこれだろう。俺なら初撃で死んでる」
こちらもまた模範解答だ。
「これで問題ないことが分かったが、…文遠、無茶は厳禁だ。子賁がいれば大丈夫だとは思うが」
「承知しております」
文遠が言うのに、子賁も軽く会釈し了解する。
言われるまでもなく子賁は自分がいる限り、文遠に刃を寄せ付けない覚悟である。
さて、戦場では面白い心理が働くものである。
たしかに敵味方ははっきりと分かれている。当然敵に憎しみを抱くことも多い。殺し合いなので当たり前ではあるが、そんな中でも敵に親しみを持つことも実はしばしばある。
遠い本拠地にいる顔を見たこともない味方より、身近で毎日顔を見る敵に親しみを覚えるのは実はありがちな心理状況なのかもしれない。
数か月もにらみ合いが続くと、このような状況も起きてくる。
文遠と子賁はよく連れ立って城や各所の陣の見回りをする。
文遠は背が高い。遠目にもわかるぐらい体格もよく、武術を極めていることから背筋も伸びているので堂々として見える。
ありていに言えば偉丈夫であり、風采が良い。
身内のひいきを除いても絵になる男だと子賁は思っているが、それは敵兵からしても同様だったらしい。
敵から矢を射かけるでもなく、ただ文遠を見るために顔を出すものが増えだした。
「見物客が増えたな」
城からやや離れたところにある陣を見回っていた時に盈を止め、敵の陣を見ながらのんびりと文遠が言う。衆目を集めるのに本人も慣れている。
最近は子賁も甲もつけずに見回ることが増えたので、金髪碧眼がよくわかるようになったのだろう。珍しいもの見たさか、さらに見物する敵兵が増えた気がする。
味方の城をみれば妙才も櫓からこちらを見ているようだった。
少々前に妙才に声を掛けられた時のやりとりを子賁は思い出す。
「なかなか良い風景だ」
「味方の将など見慣れているでしょう。面白くないのでは」
「いや偉丈夫と美形が連れ立っているのは眼福だぞ」
と妙才に言われ、何とも言えない気分になったのを思い出す。確かににらみ合いとなると暇になるのも分からないではないが、娯楽の対象にされるのもどうか。
敵側を見ると実に面白い。こちらと下を交互に見てせっせと手を動かしている者は恐らく絵を描いているのだろうか。
戦場とは思えない。
「…どこからか昌豨も観ているだろうよ」
「まぁそのほうがいいかもしれん」
交渉をするつもりがあるのであれば、その前に敵に親しみを持ってもらうというのも一つの手ではある。
文遠はすでに交渉ごとのうまい将、として知られるようになっているが、思うに礼節を弁えている上に軍人としての理想形を見せている男だからではないか、と子賁は考えている。
この時代の中華では外貌は人格の一部として非常に重視されている。人は見かけによらない、という言葉は通用しない。
文遠は勇猛であり、手に負えない気性の激しさがあるが、普段はそれらを理知的かつ優しさのにじむ言動でくるんでいる。
二重の大きな鳶色の目は誠実な色を浮かべている。
男が惚れる男、とでもいうのかもしれない。
「昌豨が惚れてくれればこっちのもん、かな」
子賁の独り言に盈の上で文遠がため息をついた。
「…お前俺を妓楼で働かせているつもりか」
「ご冗談を。こんなむさくるしい妓女を抱えた覚えはないね。…とはいえ、あんたにつられてころりと言ってくれる人間が出るたびに戦がさけられる。そう考えるとそれに越したことはないけど」
けろりとして言う子賁はこのあたり見事なまでの現実主義者である。
がっくりと文遠が肩を落とした。が、ふと何かに思い当たったようで子賁を振り返る。まじまじと子賁を見る目に、今度は子賁が蟾の上で少しのけぞった。
その目が一瞬悪戯を考え付いたように光った後で同情するような色を浮かべた。
子賁は嫌な予感を覚える。
「何」
「…いや」
そこではたと文遠が考えていることが分かり、子賁は渋い顔になった。
「そこから先は言うなよ」
「…いや考えてみたらお前も同じような立場にいつも置かれていたなと」
「言うなっつったろ」
「むしろお前のほうが常日頃からこの扱いだったな、康姫」
事実である。まだ許にいたころに華北の使者が来た。その際奉孝が酒に酔っ払い悪ふざけで子賁に女物の衣服を着せて将軍府内を連れ回していたのである。
散々絡まれた挙句、勝ち目のない一流軍師相手の囲碁勝負で負けた罰であるので、子賁にとっては理不尽極まりない理由であった。
そこでばったり会ったその使者に康国の姫君です、と紹介されてしまいそれに合わせざるを得なくなったのである。
『これは美しい。そのうち宮中に上がられるのか』
うっとりした目でそう言われてしまうと否定できない。この時代男に女物を着せて堂々と歩き回らせていること自体とんだ風紀の紊乱である。敵性国の使者の前で見せられたものではない。
小さくは女装の正体がばれること自体子賁にとってはこれ以上にない恥辱であった。精神的死活問題である。
「金髪も美しく、垣間見た将軍連もさんざめいております。帝の寵愛を受けましょう」
「そうなれば西域への道程もまた変わってくる。司空もよいところに目を付けられましたな」
結果言いたい放題の奉孝に合わせ、言葉を話せないふりをするしか方法がなくなった、というわけである。奉孝に対して内心罵声の嵐だったのは言うまでもない。
最後に曹公と元譲、妙才、公明と文遠が飲んでいる房に子賁を連れて入り、華北の使者をからかった話をした際の騒ぎはなかなかにぎやかだった。
死んだ魚の目をしている美姫―子賁の前で。
笑い上戸の曹公、牀の上で腹を抱えたまま横倒しになり笑死にそうになっていた。
その横でにこやかに「どうせあんな人を見る目のない使者の前で何やっても問題にならないですよぉ」などと減らず口を叩き続ける奉孝に元譲がゲンコツと小言を食らわせ、襟首掴んで揺さぶっていた。奉孝の挿したかんざしの鈴がやかましい。
公明は黄河を横断できるのではないかというぐらい目を泳がせつつ、やたらに盃を回しながら論語の冒頭を小声で暗唱していた。その横では心配そうな目で叔知が見上げている。この男も堅物な方かつこの手の諧謔に慣れていない。
文遠はといえば…中身が零れて空になった盃を手に持ち、無表情で子賁を凝視したまま完全に硬直していた。わが目が信じられないという顔である。
それを「戻って来いー!!」と騒ぎながら肩を掴んで妙才が揺さぶっていた。
ありていに言えば地獄絵図である。
さらにそこで遅れて参加となった文則がやってきた。
文則は「頭突きで天地を割れる」と言われるほどの頑固さと強直さがあるが、曹公の重臣だけに頭の回転は相当速い。
この光景を一見しただけですべてを察した文則は戸口で仁王立ちしたまま「全員姿勢を正せっ!」と通る声で一喝。ちなみに姿勢を正した中にはしっかり曹公も入っていた。
…さすがに主君公認の無礼講のため曹公を筆頭に散々説教を食らう程度で済んだが、半泣きの子賁に「こんなところで押しに負けるな。半分は自業自得だぞ」と窘める様な小言を食らわせた後に、奉孝には一言。
「…髡刑と宮刑、どちらがよろしいですか。もちろん両方でも構いませんが」
文則、武官とは思えぬほどの色白の美男である。それがこれ以上にない底冷えのする氷の微笑で奉孝に聞いていた。
遊び人に髪をそり上げるか、性器を切り落とすかと問いかけるあたり、相手が堪える事が何かを文則はよくわかっていた。
頭と前を手で庇い、奉孝は簪の鈴がなるほどに震え上がっていた。
ちなみに曹操の元を辞した文遠は女装のままの子賁を連れて帰ったので、それを誰かが見ていたのだろう。
うわさがねじれにねじれ、誰かが面白がり、ついでに途中で誰か色々とめんどくさくなったらしく、最後には「宮中に上がるはずの康国の姫に張将軍が手をつけて下げ渡されたのが子賁である」ことになっていた。
全部間違っている。
おかげでしばらくは子賁をじろじろ見る者が増えた。
そしてうんざりするような質問攻めである。
最大限の地雷を踏みぬいたのは半分予想通り、文謙だった。
『子供ができたって本当か?』
『いや?俺独身ですけど』
『無理するなよ。文遠にはきちんと責任取らせろって』
『何の話ですか?』
『心配すんなって、やつもこういう処は糞真面目だ。小虎も兄弟出来たらうれしいだろうし』
『え、あいつどこかで粗相したんですか』
『何言ってんだ。お前が生むんだろ。俺は男にかけたぞ。がんばれよ』
『はい?』
『お前が生むのは男か女か賭けが始まっててな。子簾殿が胴元なんだ』
さあ、どうしてやろうか。
曹子簾に怒りが向かう。曹公公認、中原一の銭ゲバなのは知っていたが人を妊婦に仕立ててまで金稼ぎとは、物には限度があるだろう。
さすがに逆上しかけた子賁がくわっと口を開けた瞬間、文謙の顔面にちょうど通りかかった曼成の拳が実に自然な動作でめり込んだ。
静かになる。
子賁は口を開けたまま止まった。
『すまん子賁、こいつにはわからせとくから気にすんな。あ、于将軍にはちくっといたから』
李一族の若き当主、曼成が爽やかな笑みを浮かべ明るく言った。このできた当主は相変わらず文遠とは仲が悪いが、子賁とは書の貸し借りをし、折に触れ贈答品を交わすなど個人的に親しく付き合うようになった。文遠にまつろうものすべてを憎まないあたり、性格に湿り気はあまりない。
このように非常に良識的であるが、今やっていることは野蛮極まりない。が、野蛮にさせているのは顔をへこませた無礼千万の文謙自身である。
首根っこつかまれて引きずられていく文謙を子賁はやはり口を開けたまま、唖然として見送ったものだ。
仲がいいのか悪いのか、文謙と曼成は一緒にいるときが多いくせに一緒にしておくと定期的にもめるのである。年齢も近く、曼成が李家の当主になったのと、文謙が軍内で頭角を現したのはほぼ同時期のせいもあるのだろう。曼成は一族を率いるそれなりの名家の当主である一方、文謙は地下の身分の出身である。が、その違いにもかかわらず互いに隔意がない。
それはよいが、しばしば喧嘩友達のようなことになりがちだ。
ちなみにこの後、賭博に参加した武官は文謙・曹子簾含め全員文則に処断された。
処断の場には賭博のダシにされた鬼の形相の文遠に鉞を持たせ同席させた。
そのうえで悪筆の文謙には髡刑の判決の上で罪の免除を願う嘆願書を清書まで書かせ、銭ゲバの曹子簾には罰金刑を言い渡したというから…やはり文則は相手に一番効くことが何かをよくわかっている将だった。
…思い出しただけで嫌になる災難にげんなりとして子賁が止める。
「だから言うなって。うれしくも何ともねぇんだから」
それに文遠がしてやったり、とばかりににやにやしながら追い打ちをかけた。
「奇遇ですな。俺もうれしくないのですよ、姫」
「お互いうれしくねぇから黙れっつったんだよ、ばーか」
悪童のような罵声を子賁は蟾の上から文遠に浴びせた。
この憤死したくなるような噂に対して肯定も否定もせず、ただ満足げに「うらやましかろう」とのたもうた文遠にも責任の一端はある。そういう話があったとしたら羨ましいだろう程度の意味とは思うが、例によっての言葉足らずである。
これを聞いた子賁が有無を言わさず飛び蹴りを食らわせたのは言うまでもない。
そんな文遠は今も子賁の罵声ににやにやしながら、盈を歩ませる。
この陣にいるのは文遠軍の麾下である。二人の話しているもめごとの真相を知っている者も多い。
主従のやりとりを見聞きしていた近くの雑兵数人が笑っている。中には笑いをこらえて震えているものもいた。一人は幕舎に走り込むと妙なうめき声が上がった。どうも笑いを止められなくなったらしい。
それらを気にも留めず、文遠が続ける。
「そのうれしくない扱いがよく分かった。が、確かに黙認も必要な場合もあるだろうな」
ぶぜんとした顔で子賁も蟾を歩ませ始めた。
「実際まぁその通りだね。使えるものは使わないと切り抜けられない事態って多々あるし」
その言葉の含むところに思い至ったのか、一瞬後にくるりと文遠がこちらを振り向いた。先程の笑みはどこへやら、大きな目が怒りの色を乗せ、思い切り子賁を睨んでいる。
「…やったことがあるのか」
目を吊り上げる文遠にんなわけあるか、と子賁は否定した。実際覚えはないわけではない。というかそれなりにあるが、それを素直に言ったらこの場で騒ぎだすのは間違いない。さすがに敵陣前ではやめていただきたいところだ。
「ないしこれからも極力したくねぇわ」
それに文遠が本当かよ、という顔でもう一睨みし、前を向いた。
こいつが女衒やったら、お代は間違いなく客の命である。
文遠は盈を城に向けて歩ませ始める。子賁もそのあとをゆっくりと蟾でついていった。
その背中が子賁に言った。
「笑い話で済むのは馬上のみだ。馬を降りたらその手の冗談はしまっておけ」
文遠に言われ、子賁はお前が振ってきたんだろ、と内心つぶやきながら軽く肩をすくめた。
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