第18話 愚か者へ

「大丈夫? 生きてる?」


 ……誰だ?


 麻衣、にしては元気すぎる声だ。後輩、にしてはうるさくない。選択肢が消えた俺はゆっくり目を開けてその正体を確認した。女性が俺と同じ目線になるよう目の前でしゃがんでいた。誰だ……、でも見たことがある、このボーイッシュな髪形。


「一応聞くけど、ここの主ってあなたなの?」


 俺が背を向けているドアを指さし、そう訊いてきた。


 彼女の顔をまじまじと見ていると、ぼやけた輪郭が鮮明になるみたいに思い出すことができた。あの夜、麻衣と楽しそうに話していた、吉川優里だ。


「そうだけど……、俺を殺しにでも来たのか?」


「バカねぇ、そんなことするわけないでしょう」


「俺の近くにいるとろくなことがない、今すぐ離れろ」


「……本当にバカねぇ。いいから話を聞きなさい」


 そう言うと彼女は麻衣の家の前のドアに座った。まるであの日の麻衣と重なるように。


「確かに、記事になっちゃったのは仕方ないことよ。それに、あなたにも麻衣ちゃんにも色んな過去があったのも、記事を読んで知った。とはいえ、いま曖昧になっている二人の関係をしっかり釈明すれば、無事にアイドル活動は再開できるはずよ」


「じゃあ」と俺が言うと、「でもね」と続く言葉を遮られた。


「麻衣ちゃんはアイドルを辞めるって。芸能界からも引退するって、昨日連絡が来た。もうこのアパートにもいないよ」


 信じられない言葉ほど、確かめたかった。立ち上がって麻衣の家に立った。少し目線を下げれば、彼女が俺を見上げているのが見える。それを無視してドアをノックした。チャイムも何回も押した。麻衣が出てくることを信じて、ずっと押し続けた。


「やめなさい、もういないから」


 冷静に言われた言葉ほど存在感がある。


 どうしようもない虚無感に襲われ、ぽっかりと心に大きな穴が空いた。燃え尽きたように、再び元の位置に戻った。


「言っておくけど、あなたのせいじゃないって、麻衣は言ってる。むしろ私がきちんとあの件を伝えられなかったのが悪い、って。そしてあなたと出会えたことに感謝しかないって」


「でも俺は麻衣の人生を潰したようなもんだ。こんな俺に感謝される筋合いはない」


 隣から大きなため息が聞こえる。こんな俺に呆れた証拠だろう。


「これだけは喋らないつもりだったけど、あなた、麻衣ちゃんとお墓参り行ったんだってね?」


 何を言い出すかと思えば、酩酊した翌日、あのときの話題だった。何を訊きたいのか分からないが、「行った」という事実を伝えた。


「なんで行ったか分かる?」


 考えてはみるものの、思い当たる節など何もない。


「麻衣ちゃんの初恋相手があなただったからよ」


「……いや、そんなわけないだろ」


 それによく考えれば支離滅裂だ。それとお墓参りは繋がらない。なにか足りないものが多い気がする。


俺は脳裏にちらつく麻衣の顔を振り払うように頭を振った。


「まぁそうね。私は麻衣ちゃんから聞いただけだから、私が肯定する根拠はない。でも私は麻衣ちゃんの言葉を信じる、それだけ」


「……それを聞いたところで何も変わらないよね。俺にできることは何もない。謝ることもできないんだから」


「そう思うでしょ?」


 何を言い出すかと思えば、彼女はスマホを取り出した。とても早い指さばきで操作し、とある画面を見せてきた。『もうすぐライブが始まります。もう少し待ってね』と書いてある。隣にあるコメント欄には、『謝罪会見待ってます!』『謝罪したらサヨナラか』『卒用発表はよ』『刑務所行ですか?』『あんな記事出てライブやるとかメンタルえぐ』『辞めるまで三分前やでー」などのコメント欄が流れている。


「なに、これ」


「麻衣ちゃんの生配信、元々今日は麻衣ちゃんの担当だから。それにしても人数多いね、西野奈々未が最近やったやつの次くらいに多いかも」


 流れるコメント欄を見ていると、そこには俺に向けたコメントもあった。




『アイドルに近づくオタクが一番害悪なんだよ』『今も殺人犯の娘の帰りを待ってんだろうな』『寝取り男クソだな』『弟殺されて、彼女に見捨てられて、週刊誌に晒されて大変だな』『金目当てで近づいたクズオタクの末路』『弟の死を利用して近づいたんじゃね?』『弱み握って好き放題する時間も終わったか』




今まで他人が誹謗中傷されているものしか見ていなかったから、痛みが生じる。物理的なものではない。感情が抉られて信用も無くなり、なにより心を失う。指先で触れた毒が胴体へと蔓延していくのが分かる。


弟の死を利用して、という言葉が深く脳裏に焼き付く。絶対にこの文章を、俺は生成できない。


「こういうことか……」


「なにが?」


「いや、誹謗中傷は辛いなって。分かったような口利くなって思うかもしれない。でも、一部のコメントの対象は俺だ。けど名前や顔は分からないから、メンバーと比べるとダメージが少ない。そんな俺でも辛いよ、この無数に飛んでくる言葉の暴力は。そりゃあ腐っても仕方ないって思えるよ」


「腐るって、何を言ってるの?」


「……なんでもない、こっちの話」


「まぁいいけど、本題に戻るね。麻衣ちゃんはこの配信で卒業発表をして芸能界引退をするんだって」


「……本当か?」


「本当よ、事前に聞いたんだから」


 それを聞いて、なおさら俺にできることがないと思い知られた。麻衣も今頃、このコメント欄を見ているのだろうか。俺なんかよりよっぽど酷いことを書かれている。


「あとね、麻衣ちゃんは誹謗中傷に強いよ」


 そう言うと、彼女はポケットから車のスマートキーを取り出した。そう分かったのは、見覚えのある自動車メーカーのロゴがあったから。


「麻衣ちゃんは何を言われても立ち向かってた。どんなに酷い言葉も汚い暴言も、全部受け止めてた。私より年下なのに、肝が据わってるっていうのかな。たぶんメンバーで一番だと思う。それが今のメンバーにない麻衣ちゃんの強み」


 だからこそ、こうして一人で決断してしまったのかもしれない。好きじゃないかもしれないが、アイドルとしてもっと活動したいと言っていたあの言葉は本音だろう。お金のためは事実かもしれないが、本心はどうだろう。


「私はね、もっと続けてほしい。もっとあの子のそばで見守っていたい。でもあの子は意思が強いからさ」


 そう言うと彼女は立ち上がり、俺にも立つように促した。すると、彼女は自分の左手に生温かな息を吐き、握りこぶしを作って俺の肩にぶつけてきた。別に痛くはないが、微かに熱い何かが伝わった。


「今の麻衣ちゃんにはあなたが必要だと思う。あなたの声が、思いが、必要だと思う」


 続けて彼女はこう言った。


「生配信をボイコットするわよ」


 そんなこと可能なのか、と訊くと、やってみるしかない、と目の奥で静かな炎をパチパチと燃やしていた。


「これ逃したら、麻衣ちゃんに二度と会えないのかもしれないんだよ」


 恫喝するように彼女は言った。彼女の言葉は壊れかけていた心の接着剤となった。


 俺は、麻衣と出会わなかったら、憂鬱な世界に期待しないまま、つまらない時間を過ごしていただろう。


 一瞬でも麻衣を憎んだ時間があるのが、本当に悔やまれる。その時間のせいで、ここまで大きな事件に発展してしまった。


 アイドルなんて絶対に関わらないと思っていた。楽しそうに歌って踊って、好きでもない男を好きにさせて金をとって危機感を持ってい無さそうで、それで大金稼いでいると思って、嫌いだった。でも麻衣がいなかったら気づけなかった、アイドルの凄さを、かよわいはずの女の子が味方ばかりではない辛辣な世界で戦う辛さを。その世界の架け橋となってくれた麻衣に感謝しかない。


あの日の出会いを後悔したときもあったが、過ぎてしまったことを悔いてはいけない。


麻衣にはまだ活動してもらわないといけない。あのライブで、麻衣の虜になった俺に楽しい時間を、生きていく意味を届けてほしい。


 だから行かなければいけない。


「分かった、行くよ」


 俺がそう答えると、彼女はその答えを待っていたかのように屈託のない笑顔を見せた。


「そう来なくっちゃ」と再び俺の肩を叩いた。


「あっちに車があるから」と彼女が言うと、百メートルの計測かと思えるようなスタートを切った。女子とはいえ、アイドルの走力はとてつもない。そこそこ運動の出来る俺でも追いつくのが精一杯だった。


 隣に並んだとき、彼女はどうして俺の家に来たのか気になった。


「そもそも、なんで俺の家に来たんだ?」


 どうしても訊きたかった。


「麻衣ちゃんは隣人の話をよくしてた。『私に何かあったら隣人に』って言ってたから、勝手に来たの。まさかあなただったなんて、驚いたわ」


 ……そんなことを言っていたのか。悔しくなってきた。


 しばらく走ると、コインパーキングにとまっている黒のワンボックスの前に彼女が止まった。彼女は持っていたキーでロックを解除し、運転席に乗り込んだ。その際、「あなたは助手席ね」と言われたため、その通りに従った。


 実家の車が臭いイメージがあったためか、彼女の車に乗ったとき、花畑が想像できるような匂いが充満していた。


「……あなたはあの人と同じ目をしているから、たぶん嘘をつかないし、裏切らない」


 俺に向けて喋っていたのか独り言なのか、判別はつかなかった。それに対して俺が答えようとすると、スマホを俺に託した。


「そろそろ始まる、大音量で流して」


 俺が受け取ったとき、画面が切り替わり、生配信はスタートした。


 大きなソファーが一つ置いてあって、マカロンのようなクッションが置いてあった。数秒遅れて麻衣が登場した。画面越しでも分かるくらい生気を失っている。その姿を見て、自分の罪の大きさを自覚する。


「くよくよしてんじゃないよ」


 彼女は荒い運転さばきで車を運転する。法定速度を十キロくらい超えている気がするが、彼女はなにも気にしていないようだ。


 俺は生配信に目を焼き付け、耳を傾けた。


 画面の前で一礼をして、アナウンサーのような立ち姿で麻衣は写っていた。


「お久しぶりです。橋掛麻衣です。この度は記事の件で、お騒がせしてしまい、大変申し訳ございません。あの内容の全ては紛れもない事実です、お騒がせして大変申し訳ございません」


 違う、俺が謝るべきなんだ。


「なにのこのこ生配信に出てるんだ、って思ってる人も多いと思います。私は私なりの責任を感じてここに来ました」


 責任なんて感じなくていい。


「ただその前に、記事の詳細を、私の口から説明します」


 麻衣は何も言わなくていい。


「私なんかの記事を書いてくださった方には苦労をおかけしました」


 麻衣はすごい人だ、自分を蔑むな。


「今回の生配信、欠席の話もありましたが、マネージャーと話し合って、決行することになりました。今日は、記事に書いてない私のことを話そうと思います」


 俺は運転する彼女を見た。彼女は戸惑うことなく前を見ている。


「最初の写真で、私は男性を担いでいました。その後、家に入って何が起きたか、皆さんが気になるところですが、本当に何もありません。証拠はないですが」


 コメント欄を見ると、『嘘つけ』『んなこと信じるか』『ヤったんだろ?』など大半がモラルに反したコメントをする中、『俺は麻衣ちゃんの言うこと絶対信じるよ!』『人助けだよね』『優しい性格だから助けちゃったんだよね』などの熱いエールを送るファンがいて、心を打たれた。こんな状況でも正義を貫ける真のファンがこの配信にいる。でもそんなメッセージは本当に少なくて、全く印象に残らないほどアンチコメントが侵食している。


「翌日、私はこの男性と、ある場所に出かけました。それは墓地です」


 コメント欄の流れが少し弱まり、過激なコメントが軽減される。『墓地デート?』『墓地なら誰も見ないもんね』


「グループに加入する前の話です。中学生の頃、私はある人を心から羨ましいと思っていました。その方は他人からとやかく言われても受け流し、自我を持っていて、一人で生きている素晴らしい人でした。それに比べ当時の私は、母親に指図を受けながらでしか生きることができない哀しい人間でした」


『なに自分語り初めてんの?』『謝罪だけ聞きたいんだけど』


「そんな母は、こんな言葉を残してこの世を去りました。『あんたから青春を奪ってごめんなさい。いつかあなたの青春の人になるべきだった人に謝らせてください。これからはあなたの好きなことを思う存分にやりなさい』と。だから約束を遂行していました。本当に謝ったのかどうかは、霊能力者じゃないので分かりませんが、とりあえず会わせました」


 そういうことだったのか……。


「青春を奪う、これをどう捉えるかは難しいです。中学高校と学校で友人と喋ったり、恋人とデートをしたり、夢に向かって切磋琢磨したり、一概に青春と言っても色々あると思います。でも母は青春を奪うどころか、与えてくれたと思います」


 コメント欄は再び荒れだした。『結局卒業すんの?』『いい話っぽく言うの気持ち悪い』『んなことどうでもいいから運営は配信を切れ』


「アイドル活動でたくさんの感情を得ました。喜怒哀楽もそうですし、競争心や慈善心なども得ました。アイドル活動は私を、私の心を成長させてくれたと思います。唯一の青春を味わえた場所なので、あのときオーディションに出会ってよかったです」


 それに対し、コメント欄は加速する。『だから男に手を出したってことか、理解』『性欲も得たんだね』『怒を知ってるならこんなことすんなよ』『出会わなくてよかっただろ』


「オーディションを受けるきっかけは母でした。母が勝手に履歴書を送って、オーディション受けて、気づけば合格して、今日まで生きてます」


 コメント欄は燃え続ける。『死んだ奴のせいにするな』『嫌ならやめろよ』『才能あるアピールウザ』『人気ないこと自覚してる?』


「アイドルは、お金のために始めたようなものです。母が作った大量の借金を返すために続けています、今も返してます」


 秘密を打ち明けた後、コメント欄は加速する。『借金アイドル』『クソやんけ』『グループのイメージ悪くなるから喋んな』『もういいから消えて』


「番組でやってたアンケート企画を見て、凄く羨ましかった感想を抱いたのを忘れません。どのエピソードもホームビデオも微笑ましかったです。私が家族のことを話せば、お蔵入り確定ですから」


コメント欄では勝手に火力が上がった。『調子乗んなや』『妄想もそのあたりにしたら?』『なおさら残ってほしいと思わん』


「それに、一番許されないのが、私の父が起こした事件です。父は会社で大きな失敗をし、頭がおかしくなっていました。そのときに起こしたのが、記事に書いているあの事件です。当時、その事件を聞いただけでも驚きましたが、被害者の男性を知って、もっと驚きました。どうしていいか分からず、あの人のことは忘れよう、と思いアイドル生活にシフトしました」


 俺と一緒で、一時的にパニックになるよな。


「でも年数が経てば経つほど、罪悪感が押し寄せてくるようになりました、直接的に仕事に影響が出るわけではないですが、心のどこかで謝らなければいけない、そう駆られました。そのときに、あの人と再会しました。でも、すぐ謝ることはできませんでした。ただ、何も打ち明けないで過ごした時間が、私にとってとても大切な時間になりました。アイドルとしてもう少し頑張ろうと思えました。だからこそ、謝罪する機会を失ってしまい、結果的に裏切るような形になってしまいました」


「着いたよ」


 彼女の声を聞くまでいっさい外を見ていなかった。気づけば八階程度のマンションのような建物があり、その駐車場に停まっていた


「マンション?」


 俺がそう訊くと、ライブ配信をしているスマホを取り上げ、電源を切った。交換するように不織布マスクを俺に渡した。


「んー、事務所っていうのかな。社長がアイドルのために建てたみたい」


「これ全部?」


「そうよ。ただ普通のマンションとは造りは違うけど。一階と二階がオフィスみたいな感じで実際にスタッフが働いてるし、三階と四階が私たちとスタッフで打ち合わせしたりするロビーとか色々。五階が基本的にファンクラブ向けの配信だったり動画撮影とかやるスタジオみたいな場所ね。それより上階が上京する中学生と高校生の家になるね。麻衣ちゃんも私もここに住んでたのよ」


 ただ事務所を見ると、玄関の前で一人、顎にパーマみたいな髭が生えている警備員が突っ立っている。それを見た俺は、「入れないだろ、これ」と言った。


「なんとかなるなる」


 おまじないのようにそう言うと、彼女は車を降りた。俺は動いていいのか分からなかったが、外で彼女は手招いたので、マスクを着けて降りた。


「あなたは何も喋らなくていいから」と彼女は俺の唇の前で人差し指を上に向ける。何も分からない俺は従うしかなかった。


 車を降りると、彼女は迷うことなく警備員の前に向かった。後ろ手でこっちに来るよう合図を貰い、従った。


 もちろん、メンバーである彼女に警備員は挨拶をしたが、その後はゴミを見るような目で俺を疑った。


「こちらは?」


 どう切り抜くんだろう、俺は黙って彼女に縋る。


「この人、中途採用の選考中なの。ここだけの話、私の友だちなんだけど、職を失ったからってことでこれから極秘面接なの。絶対喋ったらダメよ?」


 警備員はその話を信じたのか、長めの会釈をして、俺に挨拶をした。言葉を発さずに道を開け、建物内に入れてくれた。なんだか申し訳ない気持ちが生じたが、彼女にケツを叩かれ、目線を伏せたまま入る。


「意外と簡単に入れるものね」と彼女は潜入したかのように言った。


入るとロビーから大音量で、麻衣の声が聞こえる。覗くように見てみると、大人たちがモニターに釘付けになっている。見守っているのか、最後だから見ているのか分からない。彼らから出る言葉は、「もったいない」「親切心が仇になるなんて」「まだまだ一緒に仕事したいけどな」「誰よりも頑張ってたのに」「あんなに努力したのに」「原石を磨けられなかった俺たちのせい」など、悪口なんてものはいっさいなかった。それを聞いただけで心が熱くなった。


「不祥事を起こしてしまったので、私はここにいていい人ではありません。おそらく皆さんが望んでいる、卒業と芸能界引退の選択肢を採らせていただこうと思います」


 俺と彼女は目を合わせた。急がなければいけない。


彼女は迷うことなく非常階段の方に向かった。エレベーターを使わないのは、俺のためだろう。


「配信場所は分かるのか?」と俺は訊いた。「当たり前」という言葉だけが返ってきた。


 途中でスーツを着た四十代くらいのおじさんたちとすれ違い、彼女は元気に挨拶をするが、俺は目線を伏せただけ。「ちょっと、優里さん?」と声を上げられたが、優里は無視した。


 すると不審に思ったのか、彼らは逆走してきた。「やばい、急ぐよ」という彼女の声を合図にフルスロットルで階段を上る。所詮相手は年配、追いつかれることは無かった。とはいえ常に全速力で走り、目的のフロアに着いたときには疲憊していた。


 それでも止まらず、配信しているであろう部屋の前まで走った。彼女はポケットからカギを取り出した。どこまで用意周到なのだろう、と考えるとこの計画は綿密に練られたものなのだと気づいた。だから彼女は、最初からこうするつもりだったのだ。


 鍵穴にカギを入れ、ロックが解除された音が耳小骨に響く。遠くから追いかけてきたおじさんたちに、俺たちは一礼をして部屋の中に入った。


 急いで老化を駆け抜け、奥の部屋に繋がるドアに手をかけた


普通のドアだけど、とても重くて苦しくて、積もりに積もった哀しさを壊さないようにドアを開けた。


 部屋に入った。空気が重くて肩が痛い。部屋には麻衣と若い女性マネージャーの二人。麻衣がこっちを不思議そうな顔で、涙を流しながら見ている。座っていたマネージャーは立ち上がり、俺に帰るよう促した。後ろにいた彼女は俺を押しのけ、マネージャーと対峙する。その間、麻衣はカメラに向かって思い出話をしていた。


「やっぱりあなたの仕業ね」


「悪いけど、麻衣ちゃんを卒業させるつもりなんて、さらさらないんだから」


 マネージャーは頭をポリポリとかくと、「私も」と言った。マネージャーはフラフラと歩きだし、俺の首に、絞めるような形で手を置いた。


「本当に、あなたたちの間には何もないのよね?」


 初めて会った人でも、この人は怒っている、と感じたのは初めてだった。


「ないです、迷惑かけてすみませんでした。だから、卒業を取りやめにしてくれませんか」


 マネージャーの目尻から一粒の涙が流れた。


「分かった。じゃあ生配信は止めるから、下で話しましょう」


 配信を止めようとしたマネージャーの腕を掴んで〝あること〟を耳打ちした。快い返事ではないが了承をしてくれた。


 俺は軽く身だしなみを整え、マスクを外して、生配信中のカメラの前に立った。そのとき、追いかけてきたおじさんたちが部屋に入ってきたが、マネージャーが事情を話しに行った。困惑した表情であったが、何故か止めようとはしなかった。


俺が現れたことにより、コメント欄はとても賑やかになって荒れだした。人数も見る見るうちに増えていった。




『うお! 彼氏⁉』『思ったよりイケメンだな』『スキャンダル野郎?』『真打ち登場』『盛り上がって来たぜ!』『マジ? 本物?』『何しに来たん』『どの面下げてきたんだよ』『鶏むね肉好きそう』『ねえ、ヤったの?』『一般人も入れんのかよ!』『おいおい男呼ぶなって』『気持ち悪い顔してんな』『犯罪者もどきやろこんなの』『こんなやつでもアイドルと寝れんのかー』『クズ男の顔ってクズってすぐわかるね』『二人とも消えちまえって』


 


 目の前に流れるコメント欄を受け止め、深呼吸をして、再びカメラと対峙する。


 


 SNSを盾にして好き勝手暴れる愚か者に。

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