第8話  アイドルなんてならなきゃよかった

「どうだ、これから飲みにでも行かないか?」


 この人も酒クソ野郎か、と思いながらやんわり断った。ライブの余韻があるのか、鈴木さんはずっと笑顔だった。帰る方向が全く逆であったため、鈴木さんとは駅で別れを告げた。また会いましょう、と決まり文句のようなことを言われたが、会う機会などきっとないだろう。


 近くにあったチェーンの牛丼店に寄り、ご飯を済ませる。流し込むように食べた牛丼が胃の中で姿を保とうと残っているのがよく分かる。


 電車に乗り込み、ライブ終わりのファンたちが楽しそうに喋っていたり、ライブ中のメンバーを思い出しているのか、時々微笑む乗客もいた。もちろん全てがライブ帰りの人ではない。部活を終えた少し日に焼けたテニス部の女子、バスケ部の高身長イケメン男子、塾帰りの学生カップルなど様々な人がいる。


 聞こえてくる会話では、もっと色っぽくなりたい、あの先輩と付き合いたい、もっと身長高くなりたい、幸せな家庭を築きたいなど言っている。自分に無いものを欲しいと思う人たちを見ると、今の自分の幸せさをどれだけ理解していないのかが分かる。


 簡単に手に入らないものを欲しいと思う人ほど、俯瞰して見ることができていない。だから今の幸せを知らない人を見ると羨ましいと感じる。堅実な欲求すら生まれない俺からすると、彼らはとても光り輝いている。彼らはヒーローで、俺は悪魔みたい。


手に入らないものを欲しいと望んでいたらもう終わり、そう思いながら生きていたのだと気づいた。






 帰りも乗り降りを間違えることなく、降りるべき駅に無事に着いた。おそらくテニス部の女子二人が、目を大きくしたいや脚が長くなりたいなんてことを言っている。俺から見れば、麻衣には敵わないがどちらもモデルのような女子だと思う。それなのにまだ上を欲している。本当に俯瞰して見てくれ、そう声を掛けたいくらいだった。


 陽が沈み、雨がパラパラと降り始める。まいったな、と思ったが、俺は麻衣から貰ったカッパを思い出す。それを取り出して身につける。このためのカッパなのかは知らないが、あとでお礼を言わなければいけない。本当に助けられてばかりだ。


 次第に雨足が強くなったため、一度コンビニに避難することにした。このまま弱まることがなさそうに思えた俺は安い透明な傘とカフェオレを購入し、コンビニから飛び出した。


 バチバチと音を立てて雨は傘を攻撃する。風が弱いだけならまだマシだと考えながら走っていく。遠くに見える横断歩道に一人の女性が立っていて、ちらっと見えた横顔が麻衣だとすぐに分かった。俺は少しだけペースを落として麻衣のもとに駆け寄る。だが赤く灯されていた信号はすぐに青に変わり、麻衣は歩き出す。


 だがその瞬間、ファァァァァァン‼ という音が閑静な町中に轟く。反射で横断歩道の方に目を向けた。傘がひとりでに浮遊していて、近くでしりもちしていた麻衣の側に落ちた。


「麻衣!」


 俺は傘を捨てて急いで麻衣のもとに駆け付けた。おそらく車が通ったときに水がかかり、服全体がぐっしょりと濡れている。顔も髪の毛の濡れ具合も酷い。


「大丈夫か?」


 答えは返ってこないが、体全体が震えていることから大丈夫ではないことはすぐわかる。俺はカバンの中から麻衣のグッズタオルを取り出し、頭にかぶせる。襲ってきた車は間違いなく信号無視だ。その車を目で追いかけると、その先の路肩で止まっていた。助手席側のドアが開き、一人の女性が高貴な雰囲気を漂わせながらこちらを歩いてくる。


「愛梨……」


 麻衣の震える口からその名が出てきた。


 カツッ、カツッ、と遠くから聞こえていた音が次第に大きくなり、見上げれば俺たちをゴミを見るような目で見てくる彼女がいる。


「危ないじゃない。周りをちゃんと見なさいよ」


 これほど苛立つ声とセリフは無い。


 プチンッ、と何かが切れる音が頭の中で響いた。気づけば俺は立ち上がり、彼女の胸ぐらをつかんでいた。


「ふざけんな! 信号無視してたのはお前だろ! ルールを守ってねえ奴がなに偉そうに言ってんだ!」


「うるさいわね、轢かれなかっただけ良いと思いなさいよ」


 その切り返しに驚き、俺は手を離した。彼女の顔が美形であるからか、よりいっそう悪女に見えてきた。頭の中で弟の笑顔がよぎって、それが更に怒りを増大させる。この怒りが火だとしたら、彼女の言葉は油だ。


 高級そうな黒い傘を差す彼女は、ウェーブする髪の毛を揺らしながら歩き、麻衣のもとへしゃがみこむ。決して麻衣に傘を差してあげる気はない。


「あんたもさ、いつまでマジメにアイドルやってんのよ。私たち【じゃない方アイドル】に残された道なんて何もないんだから。芸能界に残っても一般社会に戻っても、安住の地なんて私たちにはないんだよ。アイドルの名前が永遠に輝くのは、一流の活躍をした人だけなの。私たちからすると、悪口が常に張り付いてるようなもんなんだから。今のうちにアイドルの名前使って男でも作らないと、行く先は地獄ばかりよ」


 麻衣はその話を聞いても何も反応しない。


「いくら人気なメンバーが私たちを気にかけてもね、悩みなんて何も伝わらないんだから。あの人たちは私たちが欲しい幸せを既に掴んでいる、なのにまだ幸せを望んでるの。そんなの見てると腹立たしくなるでしょ」


 雨足がどんどん強くなる。麻衣の口が動いたのだが、何も聞こえなかった。


「知ってる? シェイドライブを見に行くねって言ってた人気メンバーは誰も来てないよ。だって今日は音楽番組の出演があるもんね、来るわけないよ。あんたはたまたまこの前の番組に出たけど、そのときのツイッターの反応知ってる? まぁ知らないか、私たちはSNS禁止って約束だもんね。見せてあげるよ」


 彼女はハイブランドと思われる革のバッグに手を入れ、ガサガサと動かす。おそらくスマホを探している。 


 だめだ、それを麻衣に見せてはいけない。


 そう思った俺は彼女の腕を掴んで、脅かすように睨んだ。


「ここまで踏み入るってことは、あなたは麻衣の彼氏ってところかしら?」


 俺は酷く落ち込む麻衣に目をやる。立ち上がろうとしない麻衣を無理やり立たせる。


「違うよ。彼氏でもないし、友だちとも言えないのかもしれないけど、麻衣をこんな目に遭わせたお前が許せない、それだけだよ」


「でもさ、私がこれからやろうとしたことが、何を見せらせるか、全部わかってるから止めたんじゃないの?」


 憎々しい彼女から出た言葉は図星で、ぐうの音も出ない。これ以上、麻衣の心を傷つけるようなことをさせたくなかった。でも、この対応をしているということは、彼女の言う通りで、麻衣にも気づかれているかもしれない。


「ちょっと、痛いんだけど」


 怒りが手に集中し、痣ができそうなくらい強く握っていたことに気づき、掴んでいる腕を投げるように離した。


 雨で滲む視界の中、傘を差す彼女に目を向ける。まるで魔王と対峙しているようだった。


「お前はどうして、仲間をイジメるんだ」


 強かった雨は徐々に弱まり、細雨になる。通り過ぎる車たちの視線なんて気にならない。


「同じグループの仲間だろう。どうして亀裂を作るんだ」


「別に、元からこんな性格じゃなかったわよ。私だって好きなアイドルがいたから、そんなアイドルを純粋に目指してたんだから。でも、この業界に入ったからこんな汚い性格になったのかもね。あまりにも俯瞰で見すぎたのが原因かも。今となれば、アイドルなんてならなきゃよかった。オーディションに合格したとき凄い喜んだけど、今思えばぬか喜びだったのかもね。現実を見て完全に覚めたもの。スタート失敗したらもう終わり。後悔の日々を惰性で過ごすだけ」


 それから彼女は高級そうな傘を俺に渡してきた。受け取れ、と顎で言われた気がした。それを手に取ってすぐに麻衣に雨がかからないよう掲げた。


 雨に打たれる彼女は、さっきまでの威勢が嘘のように消え、あっという間に悲壮感漂う悲しい人へとなり下がった。


 そしてぽかんと見上げる麻衣に視線を移して、彼女は言った。


「もう、こんなアイドルの生活止めようよ。結局は人気のない私たちがいくら頑張っても残された道なんて無いんだから」


 彼女は髪の毛を豪快にかきあけると、身体を翻して車の方へ歩き出した。麻衣はなにも言い返さず、彼女の背中をただじっと見つめている。虚勢を張ったような背中を見れば、心底悪い人ではないのだと、少しだけ思える。


 車は勢いよく発進する。麻衣はゆっくり立ち上がり、小さく咳払いをした。


「愛梨も追い詰められてるんですよ。許してあげてください」


 俺はバッグからグッズのタオルを取り出し、麻衣の頭に被せる。


「……ごめんな、なにも言い返せなくて」


「大丈夫です。慣れてますから」

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