『帰りのエレベーター、誰が押した?』

その日も、ななはいつも通り、りおちゃんと別れて団地の玄関に着いた。


あたりはすでに薄暗くなっていて、街灯の光が雨上がりのアスファルトに滲んでいた。

団地の古びた入口に入ると、いつもの鉄のにおいがした。コンクリートの階段と、小さなロビー。右手には、背の低い鏡がついた古いエレベーターが一基だけ。


「また……来てる」


ななは、うっすらと怖くなった。


ボタンが、勝手に押されていたのだ。


いつもなら、エレベーターの下についている「呼び出し」ボタンは押していない限り点灯しない。

けれど、なながまだ何も触れていないのに、すでに『上から降りてくる』ように、上階のランプが点滅していた。


──誰かが、上でボタンを押したの?


団地は静まり返っていた。

小さなエレベーターは「ギィ……ッ」と古びた音を立てながら、上の階から降りてくる。

ごとり、ごとりと動くたびに、まるで誰かの足音のような音が、ななの心臓を叩いた。


「…………」


五階、四階、三階──。


(わたしの家は、二階……)


でも──エレベーターが二階で止まらなかった。


カシャン、と音がして、扉が開いたのは──ななの部屋よりも“上の階”。


五階だった。


けれど、そこには──誰もいない。


ななは、一歩後ずさる。


何もいないはずの、上の階から。エレベーターは、ななを迎えにきたように、静かに扉を開けていた。


「……だれ?」


そうつぶやいた瞬間、扉の中から──“なな自身”が降りてきた。


いや、“ななのような誰か”。


まるで鏡の中から抜け出してきたみたいに、その子はまったく同じ服を着て、同じ髪型で、同じリュックを背負っていた。ただ──目が、笑っていなかった。


「──かえろう」


その“なな”が、そうつぶやいた。


ななは──声が出せなかった。


そのまま、目の前の“なな”が、扉の横をすり抜けて消えていく。

何事もなかったかのように。



次の日。ななは“証拠”を確かめようと、エレベーターの前に設置されていた団地の防犯カメラのことを思い出した。


管理室に行くのは怖かったけど、「鍵っ子です」と言えば、玄関ホールの映像くらいは見せてもらえるかもしれない。

それに──“もう一人のなな”の姿が、映っているはずだ。


週末、勇気を出して管理人のおじさんに声をかけた。


「ひとりで帰ってきたのに……なんか、誰かが後ろにいた気がして……ちょっと怖くて……」


「そっかぁ、最近イタズラも多いしな。映像、見てみるか」


古びたモニターの再生映像には、玄関前で立ち止まる、ななが映っていた。

そして──エレベーターが勝手に降りてくる。

映像の中でも、ななはそれを見て戸惑っていた。


(ここだ──このあと、“わたし”が降りてくる……)


……けれど。


降りてきたエレベーターの扉から、誰も──出てこなかった。


(……うそ……)


それどころか、カメラの視点では“なな自身”が、何かに引き寄せられるように、無意識にエレベーターに乗り込み──

次の瞬間、エレベーターのランプが、“五階”を示していた。


「……これ、おかしいよね。わたし、二階に住んでるのに……なんで五階で降りようとしてるの……?」


「ん? でも……これ、ホントに君か?」


管理人さんが言った。


「よく見ると、これ、ちょっと……顔、違うな。いや、服も少し……」


ななは、言葉が出なかった。

けれど映像の中の“なな”は、そのままエレベーターに乗り、まるで当たり前のように五階で降りていった。



その夜、ななは決意した。


自分で、確かめようと。


ふだんは二階までしか使わないエレベーターに、意識して乗り込む。

そして、五階のボタンを押す。


エレベーターが、静かに昇っていく。

五階は、今は使われていないフロアのはずだ。空き部屋ばかり。誰も住んでいないと聞いた。


けれど──扉が開いた瞬間。


そこには、明かりがついていた。

電気の点いた、生活感のあるフロア。


(──誰か、住んでる……?)


靴音をたてず、そっと廊下を歩く。

そして──端の部屋の前で、ぴたりと足が止まる。


「……!」


ドアに、小さな紙が挟まれていた。


『ななちゃんへ。またいっしょに帰ろうね』


──りおちゃんの、字だった。


ななの目が、大きく見開かれる。


それは、毎日、学校帰りに渡されていた“メモ”と同じ書き方だった。


でも──こんな場所に、どうして……?


後ろから、冷たい風が吹き抜けた。


振り返ると──エレベーターが開いていた。


そして、その中に、“なな”が、立っていた。


だけど、もう分かった。

それは──“自分じゃない”。


目だけが、笑っていなかった。

口元は笑っているのに、まるで空っぽのようなその目。


ななは、足が動かなかった。

まるで、床に縫いとめられたみたいに。


“もうひとりのなな”が、手を伸ばす。


「──帰ろ?」



目が覚めたとき、ななは自分のベッドの上にいた。


汗びっしょりで、息が乱れていた。

夢……だったのか……?


けれど、枕元には、紙が一枚──落ちていた。


『ななちゃんへ。きょうも、いっしょにかえれて、うれしかったよ』


……りおちゃんの、字だった。


でも、その紙には──血のような赤いシミが、にじんでいた。


そして、その夜から。

エレベーターは、もう、上からは降りてこなくなった。


今度は、ななが“上に昇る”番だった。

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