『ひとつ、言葉を忘れていた』

最初に忘れたのは、ごくありふれた名詞だった。


朝のキッチンで、母親と会話をしているときだった。

トーストを焼きながら、俺はふと、言葉につまった。


「母さん、あれ……あれ、どこ?」


「……あれって?」


「……ほら、あの……お湯、沸かすやつ。金属の。取っ手がついてて」


母親が一瞬眉をひそめた後、笑った。


「ポット? それとも……やかん?」


「あ、それだ。やかん。ごめん」


そう言いながら笑ったが、胸の奥に小さなひっかかりが残った。

“やかん”という言葉を、思い出せなかったこと。

日常の中で、突然、穴に落ちたような感覚。


それは、一時的な記憶の抜けだと思っていた。

よくある、言葉が“喉元まで出かかっている”感覚。

誰だって一度は経験がある。


──でも、俺の場合、それが“戻ってこなかった”。


三日後、学校の廊下で友人と会ったとき。


「昨日のテレビ、見たか?」


「どれ?」


「ほら、あの番組。深夜の……なんていうか、芸人がいろいろやるやつ」


「……バラエティ?」


「あ、そう、それ」


自分で言いながら、冷や汗をかいていた。


“バラエティ”という言葉が、脳内からすっぽり抜け落ちていた。

しかも、“代わりに説明する語彙”すら、どこかぎこちなかった。


そして、また次の日──

こんどは、クラスメイトの名前が思い出せなかった。


その日の昼、教室で。


「なあ、あいつ今日休み?」


「誰?」


「ほら……えっと、前の席の。メガネかけてて……えーと……」


「佐久間?」


「あ、それそれ。佐久間」


──“それ”?


誰かの名前を、“それ”で済ませている自分に気づいた瞬間、背筋が冷たくなった。


言葉が、少しずつ、消えていく。

最初は、思い出しにくいだけだと思った。

でも違った。“覚えていない”のだ。


辞書を引いても、読み返しても、次の瞬間にはもう曖昧になっていた。

脳が、ことばの形をとどめていられない。


やがて、“言葉”が抜けたあとに、黒い染みのような“焦げ跡”が残るようになった。


(そこに“何か”があったはず……)


そう感じても、もはや「それが何だったか」がわからない。


そして、気づいた。


俺の言語中枢が、壊れていっている。


「なあ、お前、最近変じゃない?」


放課後、屋上で友人の宮田に言われた。


「変って、何が?」


「なんていうか……話し方が、曖昧っていうか。主語がないし、目的語も飛ぶし。最近、お前、“それ”ばっか言ってる」


「“それ”……?」


「そう。“それ”とか、“あれ”とか、“これ”。お前、名詞ぜんぶ忘れてないか?」


──そう言われたとき、俺は返せなかった。


自分がどんなふうに話しているのか、もはや正確に把握できていなかった。


“何かを言おう”と思っても、“言葉”がない。


“知っている”のに、“語れない”。


“分かっている”のに、“伝えられない”。


脳内では、たしかに概念が浮かんでいるのに──

それを表す“音”や“形”が、存在しない。


まるで、思考の骨組みが腐り落ちていくような感覚。


その夜、自分のノートを開いた。


驚いた。

日記の中の“単語”が、ほとんど“空欄”になっていたのだ。


《今日、□□□で□□をしていたら、△△が近づいてきて、×××と話した。……たぶん□□□の□□□が原因だと思う》


文字は残っているのに、意味がない。

名詞が、すべて“記号”や“代名詞”になっている。


しかも、それは「自分で書いた字」だった。


俺は──“知らない間に”、言葉を失っていたのだ。


翌朝、鏡の前でつぶやいてみた。


「おれは……□□□です」


自分の名前が、口から出てこなかった。


発声しようとした瞬間、舌が痺れたようになり、言葉にならなかった。


思い出せない。自分の名前を。


“名”を失った感覚は、ただならぬ恐怖だった。


言葉を失っていくのとは違う。

名前がなくなるということは、自分という存在のラベルを剥がされることだった。


俺は──“誰”なんだ?


学校の教科書も、黒板も、街の看板も。

少しずつ、“言葉”が読めなくなっていった。


文字はそこにあるのに、“意味”が届かない。


友人が話しかけても、“音”だけが聞こえて、内容がわからない。


教師が指名しても、自分の“名”を呼ばれている実感がない。


世界が、“無言”になっていく。


でも──自分の中の思考だけは、残っている。


言葉がなくても、考えはある。


感情もある。違和感もある。焦燥もある。


だけど──それを、“伝える術”が、ない。


そして、ある夜。


夢の中で、誰かが囁いた。


『ひとつ忘れた言葉は、“入口”だったんだよ』


──入口?


『最初に失った“やかん”。あれが、“最初の取っ手”だったの』


“取っ手”? 何の?


『ことばの世界の、扉の取っ手さ。君は、そこを開けたんじゃない。“閉じる”のを、忘れたの』


声は、空洞のような音だった。


『だから、君の“中の言葉”は、全部、外にこぼれてるんだよ』


──誰?


『ああ、それももう……忘れたか』


朝。目が覚めると、周囲のすべてが“無音”だった。


言葉が、見えなかった。


聞こえる音はあるのに、“意味”がついてこない。


世界から、言語が消えていた。


──いや、違う。


“俺から”言語が、消えていた。


家族の声が聞こえた。学校のざわめきも。


でも、内容がわからない。

“意味”が脳に届かない。


誰かが、俺を呼ぶ。


だけど、それが“誰か”なのか、もう、わからない。


俺が“誰”なのかも、もう、わからない。


いま、自分で何を書いているかも、わからない。


この文章は、“誰か”に届いているんだろうか。


もしかして、これは“読んでいる君”の話かもしれない。


君が今この文字を目で追っているとき──

すでに君の中の“あることば”が、消えはじめているかもしれない。


忘れていないか?

ほんの些細な、ひとつの言葉を──


──たとえば、君の“名前”を。


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