『あのノートは、もう閉じたはずだった』
そのノートは、中学二年の春休みに燃やしたはずだった。
紙が灰になるまで庭の焼却缶で焼き、焦げた臭いが鼻の奥に残るまで見届けた。あの黒歴史──幼すぎる自意識と、妄想の産物、誰にも見せられない“自分だけの世界”を綴ったそのノートは、炎に包まれて跡形もなく消えた……はずだった。
けれど。
高校生になって最初の雨の日。俺は、それを見た。机の上に、何の前触れもなく、あのノートが置いてあった。
濡れた記憶とともに。
まるで、“あの頃”の空気を吸い込んだような気がした。
──ノートは、紛れもなく“それ”だった。
B5サイズの黒い表紙、合皮のような手触り、角の擦れ、そして裏表紙に鉛筆で書いた自分の名前の跡まで──すべて、焼いたときのまま。
だが、おかしい。
焼け焦げた跡が、どこにもない。
ページをめくると、湿気を吸った紙がふわりと膨らんでいた。インクのにじみすらない。あのとき、確かに炎の中でページが踊っていた。焦げて捲れ、灰になり、煙になった。
なのに、いま。
そのノートは、目の前に、まるで何事もなかったかのように存在している。
「……誰か、拾った……? コピー……?」
そう思って、恐る恐るページをめくった。
中身は、紛れもなく“自分の文章”だった。覚えている。痛いくらいの言い回し、読んでるアニメや漫画の設定を混ぜたオリジナルストーリー、ヒロインの名前や、敵役のセリフ──どれも、俺の筆跡だった。
だが、違和感があった。
途中から──知らない文章が、あった。
18ページ目。以前の記憶では、そこまでしか書いていなかったはず。
だが今は、19ページ目以降もびっしりと、誰かが──まるで“未来の俺”が──続きを書き続けていた。
「4月17日 放課後、屋上で佐藤と話す。風が強くて、声がうまく届かなかった。彼は俺に、“あれ、もう書いてる?”と尋ねた。俺は首を横に振って、でも胸の奥が妙にざわついた。」
──何だこれ?
ぞっとして、背筋が粟立つ。
今日、屋上で──佐藤と、話したばかりだ。
その内容まで、ほぼそのまま書いてある。俺は確かに「まだ書いてない」と答えた。そして、なぜか言い知れぬ焦燥に包まれた。それが、“記述された”とおりの感覚だった。
いやいやいや、ありえない。
まさか──まさかこれは。
ノートが、俺の“これから”を、勝手に記録している……?
それから三日間、俺は恐怖と共に過ごした。
毎朝、学校に行く前にノートを開く。
そこには「今日、自分が何をするか」が書かれていた。
当たっていた。いや、それ以上に“決まっていた”。
例えば「購買でパンを買おうとして、小銭が足りずにミルクパンにする」と記されていた日は、本当に財布の中に50円玉がなくて、予定していたメロンパンを諦めた。
友人との会話も、先生の機嫌も、黒板のチョークの折れるタイミングすら、ノートの中に先に“記録”されていた。
日記ではなく──
これは、“予言書”だった。
ある日、ノートの筆跡が変わっていることに気づいた。
最初のページに書かれていたのは、自分の雑な走り書き。細いシャーペンで殴り書いた文字だった。
だが19ページ以降──例の“記録”が始まったページから──インクの色が微妙に変わっていた。
青に近い黒。万年筆のようなにじみ。ところどころ、インクが濃くなったり、止めが強調されたりしている。
そしてなにより──俺の字ではなかった。
一見似ているが、よく見るとバランスが違う。文字の角度、はね方、余白の取り方。
「誰か、俺になりすまして書いてる……?」
そう思った瞬間、強い吐き気に襲われた。
“俺の未来”を、他人が勝手に書いている。
それが、確定事項として現実になっている。
夜、ノートを机の引き出しにしまい、鍵をかけた。
だが翌朝、また机の上に開かれていた。
ページは進んでおり、「4月21日」の欄にこう記されていた。
『今日は、ノートを持って家を出る。途中で転んで、右の膝を擦りむく。保健室で手当を受ける。絆創膏の下がじんわりと熱を持つが、痛みは意外と心地よい。』
……転ばないようにすれば、運命は変えられるのか?
そう思って、ノートをリュックに入れなかった。
けれど、下駄箱で靴紐を結び直していたとき、クラスメイトと肩がぶつかって、階段から滑った。
右の膝。擦りむいた。
現実が、ノートに従っている。
“ノートの内容を避けようとした行動”すら、物語の一部だった。
そして──恐ろしいことに、記述は徐々に、“今後の出来事”ではなく、“俺の内面”へと侵食を始めた。
『夜、ノートを睨みながら「壊したい」と思う。だけどそれが“自分自身を壊すこと”だと気づいて、怖くなる。』
『彼はもう、自分の自由を信じていない。あらかじめ書かれた人生に従って歩くことが、むしろ安心であることに気づき始めている。』
──誰だ。誰が書いている。
俺の感情の中にまで、“誰か”が入り込んで記録している。
そうだ、これを読んでいる“誰か”が──俺の中に入り込んで、感情すらも書いているんじゃないか……?
もう自分で思っていることすら、自分のものじゃないのかもしれない。
そして──4月24日。
ノートの次のページに、こう書かれていた。
『明日の昼休み、彼は屋上で自殺を考える。風が強くて、空が白い。誰かの声が届かず、そして……決心がつく。』
その時点で、ページは破り捨てた。
でも──何度破っても、次のページに、同じ文が現れる。
破っても破っても、ページは尽きず、書き直される。
──これは、未来じゃない。
これは、決定された“脚本”だ。
俺はもう、“ただの役者”なのか?
夜、ノートを燃やそうとした。
前と同じように、焼却缶に入れて、火を点けた。
だが──燃えなかった。
インクがにじむどころか、紙が焦げもしない。
熱を感じない。
まるで、このノートだけがこの世界の“物理法則”から外れているようだった。
──いや、もしかして。
このノートこそが“世界”を記述している存在なのか?
そして──朝。
机の上にノートがあった。
『4月25日 朝、彼はこのノートを閉じる。だが、そこが終わりではない。むしろ、“第2章”の始まりである。名前のない“書き手”が、これから彼の肉体を通じて、より詳細な記述を始めることになるだろう。彼は、自分の手で、自分の人生を描き続ける筆となる。拒否は、無意味である。』
ノートの下に、一本の万年筆があった。
黒に近い青いインク──
最初の“異変”が現れたあの色だった。
俺の手が、それをゆっくりと掴む。
拒否できない。
何かが、すでに俺の意思に書き込まれている。
──ページをめくる。
空白が、ある。
そこに、文字が浮かび始める。
『4月25日 朝。彼は、ノートに“自分の恐怖”を書き始めた──』
その一行を、たしかに“俺”が、書いていた。
そして、ページはまだ……終わっていない。
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