『夜だけ増える部屋』

引っ越してきたマンションは、ごく普通の3LDKだった。


築10年。エレベーター付き。

壁紙も新しく、日当たりも良好。

何より、両親も妹も、「ようやく落ち着ける」と喜んでいた。


僕は高1の春。進学の都合でこの街に来たばかりだった。


引っ越し当日、部屋割りを決め、荷ほどきをして、夜には簡単な鍋を囲んだ。


何もおかしくなかった。

最初の夜までは。


──深夜2時。


眠っていると、耳の奥で“カチリ”と音がした。


目が覚めた。

時計を確認すると、午前2時ちょうど。


寝返りを打つと、何かが変だった。


廊下の突き当たりに、“ドア”があった。


見覚えがなかった。


そこには物置があるだけで、ドアなど存在していなかったはず。


立ち上がって近づく。

ドアには金属製の取っ手と、鍵穴のないノブ。


静かに手をかけた。


冷たい。

まるで外に通じているような、異様な空気。


だがそのとき、背後で母の部屋の扉がわずかに軋んだ音がして、振り返った。


もう一度ドアを見ると──消えていた。


翌朝、廊下の先には物置しかなかった。

やはり、あのドアは“夜だけ現れる”のだ。


父も母も、妹も、何も知らない様子だった。


数日後、再び夜中に目が覚めた。

時計はやはり2:00。


ドアがあった。


だが、今回は開いていた。


少しだけ。

ほんの数センチ、黒い隙間が空いていた。


その奥には、何も見えなかった。

光も、音もなかった。


翌朝。


母が少し変わっていた。


髪型が違う気がした。

話し方も、妙に“間”がある。

それでも、僕以外の家族は何も気づいていなかった。


晩ごはんのとき、母はいつも作らないはずの料理を出した。


味が違う。


妹が「お母さん、これ前も作ったよね」と言ったとき、母は笑った。


「そうね。いつも、作ってるわよ」


──違う。

母は一度も、この料理を作ったことがなかった。


けれど、言い出せなかった。


その夜から、僕の部屋のカーテンの隙間に、“知らない風”が吹き込むようになった。


密閉された部屋なのに、どこか空気が違う。


また、夜がきた。


また、ドアが現れた。


妹の部屋の扉が開き、廊下を歩く気配。


ドアの方へ向かう、スリッパの音。


翌朝。


妹の左利きが、右利きになっていた。


箸の持ち方、筆記の手。

利き腕が変わっている。


だが、誰も指摘しない。

僕以外、誰も“不自然だと思っていない”。


スマホの写真を遡ると、以前の写真でも“右手でピースしていた”。


記録まで、すり替わっている。


夜ごと、“ドアの中に誰かが入っていく”。


そして朝には、“少しだけ違う誰か”が家族になっている。


最初に変わった母。

次に妹。


──そして、ある朝。


父の声が変わっていた。


言葉の区切り、咳の仕方、目の動かし方。


父は父のままだ。

でも、“父じゃない”。


その日、僕は全員の顔写真を撮った。


夜中、こっそりスマホを確認すると──


全員が、同じ顔になっていた。


輪郭が、表情が、徐々に“ひとつの型”に近づいていた。


その顔は、ドアの奥に見えた“誰か”の横顔に似ていた。


三日後、夜中に声がした。


【まだ、きみだけ】


耳元で、はっきりと。


翌朝、僕の枕元に白い紙が置かれていた。


【この部屋は、夜に育つ】


【いっしょになれば、違和感は消える】


家族は、誰もおかしくなかった。


笑い、食事し、名前を呼び合い、いつもの日常を繰り返していた。


僕だけが、そこにいなかった。


次の夜、ドアが開いていた。


奥に、部屋が続いていた。


誰かが言った。


【朝になったら、きみもいる】

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