『あの子、カーテンの裏にいる』

「あの子って、誰だっけ?」


最初にその言葉が出たのは、四年二組の朝の会だった。


出席を取る担任の先生が、名簿を見ながら首を傾げた。


「ん? ……この子、いたかな。ちょっと、前に立ってくれる?」


数名の女子児童が前に出る。


だが、先生は納得したような、していないような表情で手を止めた。


「まあ、あとで確認しようか。朝の会はじめます」


それで終わった。


──はずだった。


けれど、その日から教室では妙な違和感が広がり始めた。


給食の時間。

カーテンの裏から“誰かが出てきた”。


「……あれ、さっきからいた?」


「ううん……たぶん、いなかった」


白っぽいワンピースの女の子。長い髪。

顔立ちはぼんやりとしていて、印象に残らない。


誰も名前を呼ばなかった。


話しかける子もいなかった。


けれど、誰にも気づかれず、彼女はいつも教室の隅にいた。


特に、カーテンの裏。


窓際の、光の入る午後の時間。


ふと見ると、カーテンがわずかに膨らんでいる。


風もないのに、そこに“誰か”が立っている気配。


ある日、学級日誌の後ろに、鉛筆書きの小さな文字が記されていた。


【あの子の名前を呼ばないで】


【呼ばれたら、そこに“居場所”ができる】


【覚えてしまった子は、朝にいない】


最初は、いたずらだと思われた。


だが、ほんの数日で──

ひとり、またひとりと、クラスから子どもがいなくなっていった。


欠席ではない。

名簿から名前ごと消えていた。


ロッカーも空。出席番号が繰り上がる。


けれど、誰も騒がなかった。

むしろ、“何人いたか思い出せない”という雰囲気。


僕は、なんとなく気づいていた。


あの子の存在を。


あの子が、「いなかったこと」になっていることを。


ある昼休み、カーテンの裏をそっと覗いた。


そこに彼女はいた。


壁を向いて立っていた。

髪の向こうに、耳だけが見えた。


「……あの、なまえ、教えても──」


その瞬間、彼女が振り向いた。


目は、真っ黒だった。

白目がなく、左右が繋がった“ひとつの穴”のような眼球。


唇が開いた。


声は出さなかった。

でも、脳の中に“名前”が響いた。


──○○○○。


記憶の中で、その名前が広がっていく。


翌日、僕は学校に行った。


教室に入ろうとしたが、ドアが開かなかった。


中に、僕の机がなかった。


廊下でクラスメイトとすれ違っても、誰も僕を見なかった。


声をかけても、届かなかった。


僕は、教室の**“外側”になっていた。**


見えるけど、いないものとして扱われる。

存在はしているが、認識されていない。


鏡を見た。


顔が少しずつ、あの子に似ていた。


その夜、家族と食卓を囲んだ。


けれど、箸も茶碗も出てこなかった。


父も母も、僕の椅子を避けて座った。


ついに、テレビの中のニュースすら、僕の映ったガラス越しの像を映さなくなった。


そして、ある日の放課後。


教室に忍び込んだ僕は、もう一度、カーテンの裏を覗いた。


そこには、何人もの子どもたちが立っていた。


皆、目が黒く、笑っていた。


中央にいたのは、例の女の子。


彼女だけが、名前を持たないまま、“他人の名前”で姿を固めていく。


誰かが認識するたび、その名前が“彼女のもの”になる。


最後に、彼女が振り返って言った。


【いっしょに いてくれて ありがとう】


カーテンが揺れた。


中に引き込まれる瞬間、僕はようやく思い出した。


小一の頃──僕の隣の席に、彼女は“ずっといた”。


でも、名前はなかった。


今、あのクラスには、“いないはずのあの子”がもう一人、増えている。


次に名前を呼ばれるのは──あなたかもしれない。


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