『ただいまの声が、返ってこない』

その家には、ひとつだけ決まりがあった。


「帰ってきたら、必ず“ただいま”と言うこと」


そうすれば、家の中から必ず「おかえり」が返ってくる。

それが、当たり前だった。


母も、父も、妹も、祖母も。

どんなに忙しくても、眠っていても、トイレにいても、必ず返事が返ってくる。


「ただいま」

「おかえり」


それは“この家がこの家であるための鍵”のようなものだった。


でも、ある夜だけ──その返事が返ってこなかった。


きっかけは、三日前。


大学帰り、夜遅くに帰宅したとき。


マンションの廊下は静かで、玄関扉の前にも異変はなかった。


いつも通り鍵を開け、ドアを引く。


中は暗かった。

家族の靴は揃っていた。


「……ただいま」


何も返ってこなかった。


「……おーい?」


沈黙。


いつもなら、たとえ寝ていても、誰かが寝ぼけた声で「おかえり……」と返す。


けれどその夜は、**完全な“無音”**だった。


空気の層が一枚厚くなったような、耳が詰まるような圧力。


「ただいま?」


試すようにもう一度声をかけた。


けれど、返事はなかった。


そのまま玄関に立ち尽くしていると、ふと、違和感を覚えた。


廊下の奥。


リビングのドアが、少しだけ開いていた。


そこから、誰かの“顔の輪郭だけ”がのぞいている気がした。


でも、影のせいかもしれなかった。


明かりをつけようと手を伸ばした瞬間、


【入っちゃだめ】


誰かの声がした。


それは、小さな囁き。

でも、耳元ではなかった。


玄関の下、床のすぐ下から──地面から響いてきた。


【入ったら、“返事のないもの”がこたえるから】


逃げるように玄関を閉めた。


その夜は、近くのネットカフェに泊まった。


次の日、昼過ぎに家へ戻った。


母が出てきた。

「昨日どうしたのよ、心配したんだから」


「ただいま、って言ったんだけど……」


「言ってないでしょ。だって誰も聞いてないもの」


父も妹も、いつも通りだった。


けれど、ひとつだけ奇妙なことがあった。


祖母の姿が、なかった。


寝たきりだったはずの祖母のベッドが片付けられ、押入れの中も空。


「施設に移ったのよ」と母は言った。


でも、そんな話は聞いていなかった。


その日の夜、ふと、家の隅から擦れた音が聞こえた。


押入れの裏。

タンスの背面。

床下。


【おか……え……り】


聞こえてはいけない場所から、祖母の声がにじみ出ていた。


次の日、祖母が使っていた部屋の床の間に、何かが落ちていた。


乾いた“薄い皮”のようなもの。


持ち上げると、それは──


喉仏だった。


小さく、軽く、カラカラに乾いた。


その夜から、家では誰も「おかえり」を言わなくなった。


「ただいま」と言っても、家族は無視したように振る舞う。


言っていないような顔をする。


僕は、毎晩、玄関で立ち尽くすようになった。


「……ただいま」


【おかえり】


返ってくるのは、“壁の中”からの声だけだった。


母の声でも、妹の声でもない。


もっと奥深いところ。

音ではなく、気配として届く何か。


そして気づいた。


「ただいま」に返事がなかった夜は、“家の中に入ってはいけない”日なのだと。


その日、誰かが“すり替わる”。


そして、翌朝には家族の誰かが“違うもの”になっている。


祖母の部屋の仏壇に、写真が飾られていた。


でも、それは──

祖母ではなかった。


見知らぬ女。

黒い着物。笑っているけれど、口の中に歯がなかった。


最近、妹がしゃべらなくなった。


喉が痛いの、とだけ言った。


そしてその翌朝。


妹の部屋から、“喉だけ”が見つかった。


白いタオルの上に、きれいに置かれていた。


今日、帰り道でふと思った。


「今日は、返事があるかもしれない」


でも、あの玄関の前に立った瞬間。


ドアの内側から、“僕の声”が聞こえた。


【ただいま】


誰かが、もう入っていた。


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