『祖母の“縫いぐるみ”』

祖母が亡くなったのは、秋のはじまりの雨の日だった。


枯葉が濡れたアスファルトに張りついて、空は一日中、濁った色のままだった。


祖母は認知症を患っていた。会話もままならず、夜中に大声で笑ったり、ひとりで廊下を歩いたりする姿を何度も見た。


それでも、亡くなったと聞いたときには、胸にぽっかり穴が開いた気がした。


葬式は小さく、身内だけで執り行われた。


家に帰ると、遺品整理が始まった。


祖母の部屋は、仄暗く、畳にまで線香の匂いが染みついていた。

押入れの戸には、テープで貼られた紙が残っていた。


それにはこう書かれていた。


「この押入れは、わたしが死んでも、ぜったいに開けてはならない」


達筆とは言えない丸文字。だが、筆圧は妙に強く、紙がくしゃりと波打っていた。


「……どうする?」


母が戸を見つめながら呟いた。


「本人がそう言ってるなら、開けないほうが……」


「でも、中を整理しないと……ほら、形見とかもあるかもだし」


僕は、何かに惹かれるように、押入れに手をかけた。


ガラリと戸を開けた。


薄暗い空間。埃の匂い。


だが、その奥に、異質な“重さ”を感じた。


布だ。


ぎゅうぎゅうに詰まった、布の塊。


白や黒、赤、灰色。パッチワークのように継ぎ接ぎだらけの布が、人ひとり分ほどの大きさで押し込まれていた。


それは、かたちが“人”だった。


胴体、腕、脚。頭まである。


けれど、目も口もなく、顔はただの平面。

縫い目が無数に走り、何重にも縫い直された痕跡があった。


「……これ、何?」


母が息を呑んだ。


そのとき、思い出した。


祖母が夜中に何かを縫っていた姿。

言葉にならないうめき声を漏らしながら、手を動かしていたこと。


あれは、この“何か”を作っていたのか。


それを引きずり出した夜から、異変が始まった。


寝ていると、廊下を擦る音が聞こえた。


布が引きずられるような音。ギシ、ギシ、と床板がきしむ。


最初は風の音かと思った。


でも、明らかに家の中で“何かが動いている”。


母に話すと、「猫でも入ったんじゃない?」と笑った。


でも、飼っていない。野良が入れる隙間もない。


二夜目、トイレに立った僕は、階段の上に“それ”を見た。


暗闇に浮かぶ、布の塊。


誰かが四つん這いで立っているような姿勢で、階段の上からこちらをじっと見ている。


顔はない。

でも、“首だけ”が少しずつ傾いていく。


ギギ……ギギギ……


その縫い目の継ぎ目が、軋んでいる音。


明らかに、“こちらを確認している”。


僕は叫びもせず、逃げ出した。


次の日、押入れにあった“縫いぐるみ”は、位置が変わっていた。


膝を折って、誰かの足元にひざまずくような形。


それを見た母がつぶやいた。


「……これ、昔、私が作った洋服の布」


縫いぐるみの脚の部分に、自分の記憶と一致する布を見つけたらしい。


「このワンピース……私が小学生のときに着てたやつ。捨てたはずなのに」


次の日、父も言った。


「こっち、俺の昔の柔道着だ。背中の刺繍、同じだ」


それは、家族の“古い布”ばかりで構成されていた。


祖母は、家族全員の過去の布を集め、継ぎ合わせて──“誰か”を再構成していたのだ。


四夜目。


夜中、押入れから音がした。


バリ、バリバリ……ジジジ……。


縫い目が、裂けている音だった。


針で縫われたはずの布が、何かの力で、中から押し破られている。


その夜、祖母の部屋の床下から、何かが這い出してきた。


目が覚めたとき、僕の枕元に“それ”がいた。


布がはだけ、中から湿った肉のようなものが覗いていた。


歯のない口。黒い舌のような筋。

布の中で“別の肉体”が育っている。


その口が、声なき声を震わせた。


【……ま……だ……】


僕は逃げた。廊下に飛び出し、階段を滑り落ち、玄関から裸足のまま外に出た。


振り返ったとき、二階の窓に──


布をまとった誰かが、顔を伏せて立っていた。


その肩が、縫い目から破れ、肉の色が覗いていた。


翌朝。


祖母の部屋には何もなかった。


押入れは空。

布も、何も、消えていた。


だが、仏間の中央に、ひとつだけ赤い糸が残っていた。


それは、針に通されたまま。


床には、数枚の破れた布切れ。


そこには、見覚えのある刺繍があった。


──僕が生まれたときに使っていた、産着の一部だった。


そして夜。


鏡を見ると、自分の背中の皮膚に、縫い目が走っていた。


赤い糸。綺麗に揃った返し縫い。


まるで、誰かが“ここに何かを入れた”かのように。


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