『動かぬ赤子』

その人形は、ずっと保健室の隅にあった。


名前も書かれていない。タグも、メーカーの印もない。

プラスチックでも布でもない、妙に冷たい素材でできた赤ん坊の形をしたそれは、保健室の棚の上、ボロボロの毛布の上に置かれていた。


「誰の?」


誰に聞いても、誰も知らない。


「なんか、ずっとあるよね。あれ、動いたらマジ怖くね?」


そう言って笑う生徒もいたけれど、誰もそれ以上には触れようとしなかった。


先生たちもスルーしていた。

新任の保健の先生が異動してきたときも、誰一人としてあの人形の存在を説明しなかった。


ただそこに、“いた”。


それは、日が落ちた放課後の保健室で起こった。


「あたし、この子に名前つけちゃおっかなー」


そう言ったのは、三年の山岸沙耶だった。


保健室登校の常連で、よくここに来ては机の上でマンガを読んだり、寝たりしていた。


「名前? なんでまた」


保健の先生が笑いながら言うと、沙耶は無邪気にこう返した。


「なんか可哀想じゃん。ずっと無名で放っとかれてさ。名前くらい、あげたっていいでしょ?」


そして、ぽんと膝に抱えながら、こう言った。


「この子、“ゆうみ”って顔してる。うん、ゆうみちゃんね」


その日を境に、“異変”が起こり始めた。


まず最初に変化に気づいたのは、沙耶本人だった。


次の日の朝、制服のスカートに妙な汚れがあったという。


「なんか……土? いや、違う、なんか生臭い。泥? 血……?」


誰も気に留めなかった。


だが、彼女はその晩、夢を見た。


白い部屋。ベッドの上。身動きが取れない自分。


その脚の上に、“誰か”が乗っていた。


体が異常に重く、動かない。


重い視線。覗き込む、幼い顔。


その子は、笑っていた。


だが、目が、焦点の合っていない人形のそれだった。


沙耶は悲鳴をあげて目を覚ました。


足が、動かなかった。


金縛り、かと思った。


けれど、違った。


**脚が“冷たくなっていた”**のだ。


まるで、血が通っていないように。


翌朝、保健室のベッドで寝ていた彼女は、何も言わずに帰った。


その日から、“ゆうみ”は、誰かの膝に勝手に現れるようになった。


放課後の校舎。誰もいないはずの教室。


自習をしていた生徒がふと机の下を見ると、脚の上に重みがある。


スカートをめくると、“ゆうみ”がいた。


誰も置いた覚えがない。勝手に現れて、じっと上を見ている。


真っ白な顔。ガラス玉のような瞳。かすかに開いた口。


そして、首が──微かに、“ゆっくり”と回る。


静かに、確実に、“存在”を主張している。


そのうち、噂が広まった。


「“あの子”を抱かないと、朝になったら脚がなくなるらしいよ」


「なんかもう、抱くっていうか、“乗ってくる”んだよね。勝手に」


「気づかないフリしてると、膝の骨、砕かれるって聞いた」


その噂が広まりきった頃、“事故”が起こった。


二年の生徒が、早朝のトイレで倒れていた。


発見されたとき、両脚が“曲がらない角度”に折れていたという。


骨折だった。けれど、骨は“外からではなく、内側から圧壊していた”。


教師たちは「階段から落ちた」と発表した。


けれど、生徒たちは知っていた。


彼女は前日の放課後、保健室に行って、こう言っていたのだ。


「なんか最近、“膝の上が重い”んだよね」


学校内は不安に包まれた。


誰も保健室に寄らなくなった。


それでも、“ゆうみ”は現れる。


図書室で、視聴覚室で、トイレの個室で。


一人になったとき、誰もいないはずの膝の上に、“何か”が乗る。


そして、静かに、笑う。


保健の先生は耐えきれず、ある日“ゆうみ”をゴミ袋に詰めて焼却炉に捨てた。


翌日。


職員室の椅子の上に、真新しい布で補修された“ゆうみ”が戻ってきていた。


袋ごと、焼却炉の火が勝手に止まっていたという。


その夜、先生は脚を骨折した。


左右の膝が、粉砕されていた。


全校集会が開かれた。


「悪ふざけをやめましょう」「人形に感情移入するのは危険です」


それでも、“ゆうみ”は消えなかった。


誰かの鞄に入り、誰かの机の下に現れ、誰かの布団の中に“這って”いた。


ある日、保健室の棚の上に、二体目の人形が並んだ。


誰も見たことのない、色の濃い、少しだけ大きな赤子の人形。


名前など、誰もつけていないはずだった。


でもその日、クラスの生徒が呟いた。


「……この子、“あかね”って顔してない?」


止める間もなかった。


翌朝、“あかね”も膝の上に現れた。


脚を“重さ”で砕きながら、静かに笑っていた。


そしてその隣に、いつも“ゆうみ”がいる。


笑顔のまま、首をかしげて──

「もうひとり、名前をつけて」と言っているように、見えた。

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