『舌のない住人』

最初に気づいたのは、六月のじめじめとした夜だった。


夜中の三時過ぎ、喉が渇いて目を覚ました僕は、寝返りを打とうとして天井を見上げた。そして──息を止めた。


あった。


天井の一角、ちょうどベッドの真上。

そこに、“覗き穴”のようなものが開いていた。


いや、そんなもの、昨日までなかったはずだ。賃貸のワンルーム、木造アパートの薄暗い天井に、突如として現れた直径五センチほどの丸い黒。


ぽっかりと、そこだけが“空いている”。


思わず立ち上がり、机の上の椅子を持ってきて天井に近づいた。

……中は暗くて、何も見えない。


スマホのライトをかざしてみても、まるで光が吸い込まれるように、何の反射も返ってこなかった。


妙なのは、穴の縁が焦げたように黒ずんでいることだった。


誰かが開けたにしては、工具の跡もなければ、ネジ穴もない。ただ、そこだけ、空間が“抜けている”ような……そんな感じ。


次の日、大家に連絡したが、「穴なんてないでしょ? 前の住人も何も言ってなかったよ」と一蹴された。


部屋を調べに来てもらったが、なぜか天井は“普通の板張り”になっていた。


「気のせいじゃない? 寝ぼけてたとか」


大家が帰った後、僕は再び天井を見た。


そこに──穴はあった。


昨日と同じ、黒くてまん丸の覗き穴。

それを見た瞬間、全身に鳥肌が立った。


夜になると、“そこ”から何かがこちらを見ている気配がする。


見られている、ではなく、“覗き込まれている”。


眠ろうと目を閉じても、脳裏に浮かぶのは、黒い円の奥に潜む“何か”の気配だった。


数日後から、奇妙なことが始まった。


寝ている間に、夢を見るようになった。


真っ白な部屋。動けない自分。

目だけが動き、天井を見上げると──

そこに“顔”がある。覗き込んでくる、顔のようなもの。

でも、目も鼻も口もない。ただ、歪んだ皮膚だけでできた“白い顔”。


それが、僕の口に、指を差し込んでくる。


生ぬるく、ぐにゃりとした触感。

奥へ、さらに奥へと。喉の奥にまで、何かが“押し込まれる”。


声を出そうとしても、出ない。

目が覚めた瞬間、汗びっしょりで飛び起きる。


──口の中に、違和感。


舌の感覚が、おかしい。

上顎に触れない。動かせない。


慌てて洗面所の鏡を見る。


そこには──“舌のない”自分の口があった。


血は出ていなかった。痛みもなかった。


けれど、そこにあるべき肉塊は、消えていた。


舌が、“抜かれていた”。


叫ぼうとしたが、うまく声が出ない。


呂律が回らず、言葉にならない呻きだけが漏れる。


パニックになって母に電話をかけようとしたが、発音ができない。


泣きながらメッセージを打った。

「……舌が……ない。救急車を……」


だが、送信ボタンを押す直前、スマホの画面が真っ暗になった。


電源が落ちた。


いや──画面の中に“誰かの目”が映った。


自分の顔ではなかった。

液晶の奥から、こちらを覗いているような目。


動けなくなった僕の耳元で、かすかな声が聞こえた。


【……かわりに、しゃべってあげる】


それ以来、僕は喋れなくなった。


病院に行っても、舌は“生まれつき無いことになっていた”。

CTにもMRIにも、舌が存在していた記録が“ない”。


医者も看護師も、誰一人疑問に思わない。


母に会っても、「あんた、小さい頃から舌の動きが悪かったわね」と言われた。


──世界が、書き換えられている。


僕だけが、自分の身体の変化を認識している。


そして、数日後。


天井裏から、“僕の声”が聞こえてきた。


寝ていると、はっきり聞こえる。


【おかあさん、今日は雨だったよね】


【……うん、僕はちゃんと、夕飯食べたよ】


それは、僕が発するはずだった言葉だった。


代わりに、“誰か”が僕の声で喋っていた。


喉の奥に、違和感がある。


言葉を出そうとすると、舌がないはずなのに、“音”が勝手に漏れる。


【だいじょうぶ、ぼくが、しゃべる】


その声は、僕のものではなかった。


僕の“ふり”をした、なにかの声。


ある夜、耳元でささやかれた。


【おまえが黙ってくれたから、ぼく、出られたよ】


僕は、天井の穴を見上げた。


穴は、消えていた。


でも、壁に大きなシミができていた。

人の“舌”のような形をした、赤黒い染み。


その中心から、かすかに唇の動く音が、聞こえている。


【しずかにして。ぼくが、かわりに、ずっと、しゃべるから】


そして今日も、天井裏から──

“僕の声”が、どこかの誰かと、楽しげに会話している。


【おはよう】【いってきます】【またあした】


それを聞きながら、僕は、ただ黙っている。


舌のない口で、笑うこともできずに。

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