第10話

春の朝、病院の窓からは青く澄んだ空が見えた。少女の退院の日が決まり、病室にもどこか“旅立ち”の空気が流れていた。

「ああ、ひと段落ついたな。じゃあ、話し合おう、相棒。」

アムがロミーに語りかける。

「そうだな、こっちも話したいことがあったんだ。嫌というほど・・・いや、好きというほどな。」

ロミーは笑みを浮かべる。しかしアムは、ロミーが何をしたのか、詳しく聞いてはいなかった。大体は察しているが。

「結局何していたの?」

アムが問う。

「心臓含めたバルクアップ。」

ロミーはさらりと答える。

「筋トレで解決するのはさすがに笑うしかないわ。」

アムは呆れてつぶやく。

「努力感が足りないのが原因なら努力するしかないだろ。彼女にはボディービルをやらせておいた。自分も勉強と筋トレを重ねて頑張ったが、もっと昔に呼べていたら栄養消費が減らされずちゃんと体を作れた。」

アムは自嘲気味に笑う。

「綺麗で可愛くて私は好きよ?」

ロミーがからかうように言う。

「いい加減、ユリから脱却したくてね。」

「もう多分気づいても視聴者が解放してくれないわ、多分。」

ロミーは肩をすくめる。

「十年は持つけれど、十五年したら多分これだぞ?」

アムは自身のイメージする未来をロミーに見せる。それは、見るに堪えない姿だった。

「四十歳になったらやめてもいいわよ。」

ロミーは笑いながら言う。

「フリフリだけは勘弁だ。」

アムは顔をしかめる。

アムは少し緊張した面持ちで、ロミーの隣に腰掛ける。

「もうすぐ、ここもお別れだな。」

そう言ってから、ふっと苦笑した。

「なんだか、いざ出ていくとなると変な気分だ。」

ロミーも同じように窓の外を見ながら、ぽつりと呟く。

「毎日同じ景色だったはずなのに、今日は全然違って見えるね・・・。」

しばらく静かな間が流れる。

アムはポケットの中で小さく拳を握った。

「俺さ、正直に言うと、これからどうしたいのかずっと分からなかった。

でも、配信でいろんな人の話を聞いたり、

自分たちの日々を誰かに伝えたりして、少しずつ思うようになったんだ。」

ロミーは横顔でアムを見る。

「思うようになった・・・って?」

「誰かと一緒に、何か面白いことを続けてみたい。

それが世界を変えるとか、偉大なことじゃなくていい。

俺たちが“ここにいる意味”を見つけられるなら、それで十分だって思えてきた。」

ロミーは小さく頷く。

「それ、なんだか分かるな。

配信でみんながどんなふうに日々を過ごしているか聞いて、

“特別じゃなくても生きてていい”って、やっと思えた気がする。」

二人はそれぞれ、未来への不安をほんの少しだけ手放していた。

静かな時間の中、約束の言葉は交わされなかったが、

「これからも二人で、何かをやろう」という気持ちは

確かにその場に残っていた。

少女はその様子を見て、安堵の色を浮かべる。

新しい一歩はまだぼんやりしていたけれど、

三人はそれぞれの「自分の居場所」に向かい始めていた。

昼下がりの病室は、外の明るさがまるで守られた空間のように感じられた。

三人で過ごす最後の食事。

少女はおかずを一つ一つ大切そうに噛みしめながら、

時折、アムやロミーの顔をちらりと見ていた。

「ねえ、もしこのままずっと一緒だったら・・・どうなってたと思う?」

少女がぽつりと口を開く。

アムはちょっと考えてから、肩をすくめて笑った。

「うーん・・・多分そのうち、ロミーに怒られてたと思うな。サボるなー!って。」

ロミーはわざとらしくため息をつき、

「いや、むしろアムが食事担当になってくれたら楽だよ。案外、病院のご飯も悪くないんだよね・・・。」

少女はくすりと笑い、少しだけうつむいた。

「でも、きっとずっとは無理なんだよね。みんなそれぞれ、やりたいことも違うし。」

アムは真面目な顔になり、

「うん。たぶん、ずっと一緒っていうより、それぞれの場所で頑張った方が、

また“ここで会いたい”って思えるんだろうな。」

窓の外には、新緑がまぶしく揺れている。

ロミーは、外の光を見つめて言葉を続けた。

「でも、ここまで来られたのは奇跡みたいなものだと思うよ。

配信を通じていろんな人と出会って、結局ここにたどり着いた。

一人きりだったら、こんなふうに“明日が楽しみ”なんて思えなかった。」

少女は、アムとロミーの間に流れる静かな空気を感じていた。

「二人とも、なんか前よりずっと“自分の顔”になった気がする。」

少女の言葉に、アムは少し照れくさそうに笑った。

「アムには裏の顔があるんだよ・・・枕営業専用の・・・。」

ロミーが面白そうに言う。

「ASMR配信を枕営業と言うな。」

アムはすかさずツッコむ。

アムはうなずく。

「人のためとか、何か大きなことをしようとかじゃなくて、

まず自分が“ここにいていい”って思えたのが大きい気がする。」

ロミーもその言葉に同意するように微笑む。

「それに、これから何かを始めるとしても、

もう“失敗を怖がらなくていい”って思えるようになった。

配信でも、農業でも、何でも・・・。」

少女は驚いた顔でアムを見た。

「農業・・・?」

アムは慌てて首を振り、

「いや、まだ決めたわけじゃないよ。ただ、今までと違うことをやってみたいなって思ってさ。」

ロミーがいたずらっぽく笑う。

「いいじゃん。どうせなら泥だらけになって、配信で実況してみれば?

多分、今よりずっと面白いと思うな。」

三人の間に、自然な笑いが生まれる。

“これから”に不安はあっても、どこか温かな期待も混ざっていた。

少女はもう一度アムとロミーを見つめた。

「いつか、どこかでまた会えるよね。」

アムもロミーも、同時に力強くうなずいた。

「もちろん。」

「また絶対、会おう。」

沈黙の後、三人は同時に小さく息を吐いた。

別れの寂しさが胸に広がる。でも、その奥には「ここまで来た」という確かな自信と、

「これから進む」ための小さな勇気が芽生えていた。

病室の外で風が揺れ、春の匂いがゆっくりと窓から流れ込んでくる。

三人はもう、過去の自分たちとは違っていた。

退院の日、病院の玄関先は、いつもよりまぶしい春の光に包まれていた。

三人は小さな荷物を持って並び、

一つの場所からそれぞれの道へ歩き出すタイミングを静かに待っていた。

アムはふと立ち止まり、ロミーに目を向ける。

「結局、“神”も“仕組み”も、俺たちに全部の答えをくれるわけじゃない。

それでも、祈ることで気持ちが楽になったことも、

仕組みのおかげでここまでこれたことも、確かなんだよな。」

ロミーは頷きながら、少し笑みを浮かべる。

「そうだね。“信じる”って、万能じゃなくていいんだと思う。

正しさや奇跡なんてなくても、今日を生きる理由になるなら――

それで十分なんじゃないかな。」

少女は二人のやりとりを静かに聞いていた。

「私も、いつか自分のことを信じられるようになりたい。

『誰かのため』と『自分のため』、両方を大事にして生きていけたらいいな・・・。」

アムは彼女に優しく微笑みかける。

「焦らなくていいよ。俺たちもまだ、何が正しいかなんて分からないんだから。」

ロミーが軽く手を振る。

「迷ったら、また配信で声をかけてよ。どこにいても、きっとすぐ見つかるから。」

三人は最後に見つめ合い、ゆっくりと別々の道を歩き出す。

アムとロミーは病院の門をくぐりながら、

「これから、何を始めようか。」

「面白いことなら、何でもいいよ。」

と、互いに笑い合った。

少女は母親の病室に向かう。

まだ不安も残っているけれど、もう“ひとりきり”ではなかった。

外の世界は、昨日と同じようでいて、

三人の心の中には確かな「今日を生きる覚悟」と、

小さな祈りの力が息づいていた。

病院の廊下を、少女はゆっくりと歩く。

何度も行き来したこの道も、今日で最後かもしれない。

母親のいる病室の前で立ち止まり、

小さくノックをする。

中から弱々しい声が返る。

「どうぞ・・・。」

少女はそっと扉を開ける。

母親は枕元に頭をもたせかけ、少女の姿を見ると、

ほっとしたように微笑んだ。

「退院、決まったのね・・・。本当によかった。」

少女は少し照れくさそうに、ベッドの脇に腰を下ろした。

「うん。まだ体は本調子じゃないけど、自分で決めたんだ。

ここから、少しずつでも前に進もうって・・・。」

母親は娘の手をそっと握り返す。

「あなたが元気でいてくれるだけで、私は十分よ。」

少女は静かにうなずく。

「これからは、自分のためにも生きてみる。

でも、お母さんのこともちゃんと大事にするから・・・。」

二人は言葉少なに、互いの温もりを感じていた。

長い沈黙の後、母親が優しく言う。

「無理しなくていいのよ。

今のままでも、十分頑張ってるもの。」

少女の目に、そっと涙がにじんだ。

「ありがとう・・・。」

病院の外では、アムとロミーが並んで歩いている。

互いに特別な約束はしなかったが、

その歩幅は自然に揃っていた。

春の風が吹き抜ける中、

三人はそれぞれの場所から、

新しい日常へ静かに一歩を踏み出していった。

季節はめぐり、春から初夏へ。

町は静かに賑わいを取り戻し、田舎の畑には新しい芽がのびはじめていた。

農道を歩く人々は、日の出とともに畑へ出て、

泥にまみれ、黙々と作業をこなしていく。

畑の一角で、アムとロミーが肩を並べて土を耕している。

ふたりは都会へ戻らず、この町に残って農業を始めたのだった。

朝は冷たい水で顔を洗い、昼はおにぎりを分け合い、

夕方には畑の小屋で配信機材をセットする。

「毎日土だらけだな・・・。」

アムが笑いながら手についた泥をこすり落とす。

「これが意外と悪くないんだよね。」

ロミーも同じように笑い、

スマートフォンのカメラを持って畑の景色を映す。

配信画面には、畑の風景と、ふたりの日々の何気ないやりとりが映し出される。

視聴者は少ないが、時々送られるコメントに返事をしながら、

今日の出来事や、小さな発見、そしてささやかな祈りを語り合う。

町の人々もまた、誰に強制されるでもなく、

農作業の合間や休憩のひとときに、

それぞれの神様へ短く静かに祈るようになっていた。

一方、都市の高層ビル群では、

多くの人が合理と安定を信じて働き続けている。忙しさの中に、祈りや神を持たない人もいるが、それでも誰もが“今日という日”を確かに生きていた。

華やかな革命も、派手な事件も起きない。

社会は“普通”の中に、静かで小さな祈りと幸福を

少しずつ受け入れていくようになっていた。

夕暮れの空に淡い茜色が広がる。

畑の端で、アムとロミーが並んで腰を下ろし、

遠くの山並みを静かに眺めていた。

配信を終え、道具を片付け終えたふたりは、

何を話すでもなく、同じ景色をただ見ていた。

一日の労働で疲れた体にも、

胸の中には、確かに満ち足りた感覚があった。

「これでいいのかな・・・。」

アムがふと呟く。

ロミーは優しく笑って答える。

「いいんだよ。特別なことがなくても、

毎日生きていれば、それだけで十分だと思う。」

ふたりの後ろでは、田舎町の灯りがひとつ、またひとつとともり始める。

どこかの家で、誰かが今日の無事を祈りながら夕飯の支度をしている。

誰もが、自分なりの“ささやかな幸せ”を胸に、

静かに、明日へと歩き出していた。

アムとロミーもまた、

土の感触と、小さな声の配信、

そしてごくありふれた日々の中に、

これからの自分たちなりの物語を紡いでいくのだろう。

祈りは誰かを特別に救うものではなかった。

けれど、祈りがあることで、誰もが“今日を生きる理由”を見つけられた。

静かな未来の中で、

三人それぞれの小さな一歩と、

社会に広がる無数の祈りが、

今日もまた重なり合っていく。

物語は一旦ここで。

だが、その静かな営みは、

これからもどこかでずっと続いていく。

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ガチャ=デウス 伊阪 証 @isakaakasimk14

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