第9話:美咲からのメッセージと、葵の不在
葵が家を離れてから、もう二週間が過ぎた。
時計の針だけが進み、俺の心は、再び“あの日”に戻っていた。
美咲を失ったときとは異なる、静かで、深い喪失感が、俺を包み込んでいた。
それは、どこまでも続く、灰色の空のようだった。
ひなたの小さな寝息だけが、唯一の、現実との繋がりだった。
この孤独は、いつまで続くのだろう。
悠真の生活は、葵が家を離れてからというもの、再び乱れ始めた。
朝食のテーブルには、葵が作っていたような温かい料理はない。
ひなたは食欲をなくしがちだった。白いご飯の上に、
ふりかけをかけるだけの日々。
以前は葵が「ひなたちゃん、これ、見て!」と
笑顔で差し出していた絵本も、今は棚に置かれたままだ。
幼稚園へ送り出す時も、以前は葵がひなたの髪を結い、
笑顔で送り出していたけれど、
今は悠真が不器用な手つきで結んだ髪が、
すぐにほどけてしまう。
ひなたも葵がいないことに寂しさを感じ、
時々、小さな声で「あおいちゃん…」と呟いた。
その声は、悠真の胸に突き刺さる。
夜泣きは以前ほどではないが、
寝言で美咲や葵の名前を呼ぶことが増え、
悠真の胸を締め付けた。
まるで、ひなたの心が、
置き去りにされた二つの名前を呼んでいるようだった。
悠真は、葵の不在がどれほど自分の日常を支えていたかを
痛感する。
美咲を失った時とは異なる、
葵の不在による喪失感は、静かで、しかし深いものだった。
まるで、これまで当たり前に呼吸していた空気が、
突然薄くなったかのようだった。
部屋は、再び少しずつ散らかり始めていた。
リビングの隅には、ひなたが遊び終えたおもちゃが転がったままだ。
疲れて帰宅しても、片付ける気力は湧かなかった。
風呂場には、ひなたが使った小さなバスタオルが
そのまま放置されている。
全てのものが、葵の不在を告げていた。
俺の生活は、あっという間に、
またあの頃の荒廃した状態に戻りつつあった。
葵が残していった、ベランダの洗濯バサミだけが
残った場所を見る。
そこに、以前干されていたひなたの小さな靴がないことに気づく。
葵がどれほど大切に扱ってくれていたかを悠真は悟った。
泥だらけだった靴が、葵の温かい手で
いつもきれいに洗われていたこと。
その小さな靴に、葵がひなたへの、
そして自分への、小さな希望を託していたのかもしれない。
その希望まで、俺は手放してしまったのだろうか。
胸の奥に、じわりと後悔が広がる。
あの時、葵を引き留める言葉を、
なぜ、俺は口にできなかったのだろう。
そんな中、悠真は美咲の遺品整理を続けていた。
いつまでも残しておくわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせながら、
美咲が愛用していたPCやタブレットの
バックアップデータを確認する。
何百枚もの写真データ、
仕事のプレゼン資料、旅行の計画書。
古いファイルや写真が次々と表示される中、
ふと、一つのフォルダが目に入った。
「大事なもの」という名の、ごくシンプルなフォルダだ。
フォルダを開くと、そこには美咲が書いたと思われる
手書きのメモのスキャン画像や、
ひなたの幼い頃の動画が収められていた。
そして、その中に、一つのビデオデータがあった。
ファイル名は「アオイへ」。
それは、美咲の筆跡で書かれたタイトルだった。
ビデオのサムネイルには、
結婚式前夜の美咲の姿が映っていた。
白いドレス姿で、少しはにかんだように微笑んでいる。
まさか、こんなものが残されているとは。
美咲が自分の死期を悟り、あるいは予感して、
葵宛に録画した「ビデオレター」のデータだった。
悠真の頭の中は混乱した。
なぜ、美咲が葵に?
美咲が何を伝えたかったのか、
そしてなぜ葵宛なのかと、悠真は複雑な感情を抱く。
嫉妬のような感情が、一瞬、胸をよぎった。
だが、それ以上に、亡き妻の遺した謎に引き込まれた。
このビデオレターは、自分が見るべきものではない。
これは葵に直接渡すべきものだと強く感じた。
美咲の最後の願いが、そこにあるような気がした。
そして、それは、葵の心を動かす何かになるかもしれない。
悠真は、そのビデオデータが、
まるで自分に問いかけているかのように感じた。
「お前は、このメッセージを、どうするんだ?」と。
悠真はすぐに葵に連絡を取ろうとするが、
なかなか電話に出ない。
数回コールしても、呼び出し音が虚しく響くだけだった。
メールを送っても返信はない。
葵が意図的に連絡を避けているのかもしれない。
彼女の気持ちを考えると、無理もない。
悠真は、自責の念に駆られた。
焦燥感が募る。
葵のいない生活が、美咲がいた頃よりも、
さらに空虚に感じられることに悠真は気づいた。
ひなたも、葵がいない寂しさからか、
以前より元気がなく見えた。
小さな体で、ひなたは悠真の服の裾をぎゅっと握った。
「パパ…あおいちゃん…もう来ないの?」
ひなたの小さな声が、悠真の胸を締め付けた。
悠真はひなたを抱きしめることしかできなかった。
その夜、ひなたは珍しく夕食を残した。
「パパ、これ…あおいちゃんが作ったのとちがう…」
悠真は、ひなたの小さな頭を撫でてやるしかできなかった。
美咲が残した最後のメッセージに、
何か意味があるはずだと、悠真は信じていた。
このビデオレターが、葵を取り戻す唯一の鍵だと。
そして、美咲の真意を知るための唯一の道だと。
悠真は、重い足取りでリビングに戻り、
ソファに深く身を沈めた。
手の中のタブレットが、微かに光っている。
それは、まるで美咲が、何かを語りかけているようだった。
タブレットの画面に、美咲の笑顔が映る。
悠真は、その光景を、ただ見つめるしかなかった。
美咲の笑顔は、相変わらず完璧だった。
しかし、その笑顔の裏に、
今なら、何か別の感情が隠されていたような気がした。
悠真の心は、美咲への後悔と、
葵への募る思いで、いっぱいに膨れ上がっていた。
俺は、このまま、立ち尽くしているだけなのか。
夜空の向こうに、葵の姿を探した。
月の光が、リビングの床に寂しく差し込んでいた。
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