第8話:ひなたの告白、葵の葛藤、そして距離

葵の献身的な支えのおかげで、

ひなたはすっかり笑顔を取り戻していた。

それは、まるで長い冬を越え、

ようやく小さな花が咲いたかのようだった。

ひなたの笑い声が、リビングに響くたびに、

俺の心にも、少しずつ光が差し込み始めていた。

だが、その光は、まだおぼろげで、

どこか頼りなかった。

いつか、この光が消えてしまうのではないか、と。

そんな漠然とした不安が、

いつも心の片隅に横たわっていた。


葵の献身的な支えのおかげで、

ひなたはすっかり笑顔を取り戻し、

葵に心を開いていく。

朝、葵が「ひなたちゃん、おはよう」と声をかけると、

ひなたは元気いっぱいに「あおいちゃん、おはよう!」と返した。

その声は、以前の、どこかおどおどした声とは違う、

明るく、弾むような響きだった。

ひなたは、顔色も良くなり、頬には以前の丸みが戻っていた。

葵が「ひなたちゃん、これ、見て!」と

新しい絵本を見せると、ひなたは嬉しそうに飛びついた。

絵本を読み聞かせていると、ひなたは葵の膝の上で、

まるで本当の母親に甘えるように身を委ねた。

葵が作る、少し焦げ目のついた朝食も、

ひなたは残さずに食べるようになった。

テーブルには、ひなたの「おいしい!」という声が響く。

悠真は、そんな二人の姿を、

ソファからぼんやりと眺めていた。

心の奥底に温かいものが広がるのを感じていた。

美咲との生活では感じられなかった、

素朴で、飾らない温かさだった。

それは、まるで、ずっと探し求めていたパズルの

最後のピースを見つけたような、安心感だった。

しかし、その安心感は、同時に、

亡き美咲への裏切りではないかと、

心のどこかでちくりと痛んだ。

この感情に、どう向き合えばいいのか。

悠真は、答えを見つけられずにいた。

日中のオフィスでも、ふと葵とひなたの姿がよぎり、

そのたびに罪悪感が胸をよぎる。

俺は、こんなにも早く、

美咲ではない誰かに安らぎを感じていいのだろうか。


しかし、ある夜のことだ。

ひなたが眠りにつく前に、

葵に抱きつきながら、無邪気ながらも

核心を突く言葉を問いかけてきた。

「もう帰っちゃうの?葵ちゃん、ママみたい…

だけど、本当のママじゃないんでしょ?

お母さんも帰ってこないんでしょ?」

ひなたの純粋な問いは、

葵の心臓を直接掴むようだった。

葵は言葉に詰まり、その顔から笑顔が消える。

悠真もまた、ひなたの純粋な問いに胸を締め付けられる。

リビングの空気が、一瞬で凍り付いたようだった。

ひなたの言葉は、葵の心の奥底に眠っていた

「二番目」という古い傷をえぐり出した。

その傷口は、再び開き、チクリと痛んだ。

まるで、忘れていたはずの痛みが、

鮮やかに蘇ったかのようだった。

葵は、ひなたの小さな頭を撫でる手が、

微かに震えているのを感じた。

悠真は、葵のそんな変化に気づきながらも、

ひなたの問いへの答えを見つけられずに、

ただ黙り込むしかなかった。


その夜、悠真が寝静まった後、

葵は一人、静かにベランダに出た。

夜空には、満月が皓々と輝いている。

月光が、ベランダに干された

ひなたの小さな靴を白く照らしていた。

先日、私が泥を落とし、洗い、干したばかりの、あの靴。

それが、今はなぜか、私を責めているように見えた。

「私は本当のママじゃない…私がここにいることで、

かえって悠真くんの未来を縛ってしまうんじゃないか…」

夜風が、葵の髪を揺らす。

独り言のように、苦悩の声が漏れた。

その声は、風に乗り、闇に吸い込まれていく。

背中に当たる夜風が、冷たく、私の心を凍らせる。

かつて自分も「二番目」として扱われ、傷ついた経験が、

葵の脳裏に鮮明に蘇る。

あの時も、私は、誰かの陰に隠れてばかりだった。

美咲という完璧な存在を間近で見てきたからこそ、

自分では代わりになれない、そう思い知らされた。

彼女の輝きは、あまりにも強すぎた。

悠真とひなたにとって、本当に必要なのは、

美咲さんのような完璧な存在なのではないか。

自分がここにいることが、本当に正しいことなのかと、

葛藤する。

彼女は、美咲から「家族のようにそばにいてほしい」と

託された言葉の意味を、深く考え込んでいた。

それは、優しさであると同時に、重い責任でもあった。

私に、その責任を負う資格があるのだろうか、と。

夜空を見上げても、答えは見つからない。

自分の存在が、彼らの足かせになってしまうのではないか。

そんな恐怖が、葵の心を支配し始めた。

月明かりの下で、葵の小さな影が震えていた。

その影が、私をどんどん小さくしていくようだった。


翌朝、葵は決意を固めた顔で、悠真に告げた。

食卓には、いつものように葵が作った朝食が並んでいたが、

その場の空気は、ひどく重かった。

ひなたは、そんな二人の様子を、

不安そうに見上げていた。

小さな手で、フォークをぎゅっと握りしめている。

「私、少しの間、実家に帰ろうと思うの。

あなたたちに、もっと自分で立ち直る時間が必要だと思うから。」

その言葉に、悠真は突然のことに戸惑う。

「どうしたんだ、急に…」と、

絞り出すような声で尋ねるが、

葵の決意に満ちた瞳を見て、

引き留めることができない。

葵は、悠真の家を出る前に、

ベランダに干していたひなたの靴をそっと手に取り、

胸に抱きしめた。

その小さな靴は、ひなたとの絆の証のように感じられた。

そして、その靴を、自分の荷物と一緒に持ち帰った。

悠真は、ただ、その背中を見送るしかなかった。

葵の香りが、徐々に部屋から薄れていく。

リビングには、葵の温かさが、

まるで幻のように消え去った空気だけが残った。

悠真の心に、再び冷たい風が吹き始めた。

ひなたは、葵がいなくなったことに気づくと、

小さな声で「あおいちゃん…」と呟いた。

その声は、寂しさに満ちていた。

悠真は、ひなたを抱きしめることしかできなかった。

また、失ってしまったのか。

彼の心に、深い絶望が再び広がっていく。

美咲を失った時とは違う、

だが同じくらい胸を締め付ける、

新たな喪失感だった。

空っぽになったリビングで、悠真は一人、

ただ、ひなたの小さな寝息を聞いていた。

時計の音が、やけに大きく、響いていた。

この孤独は、いつまで続くのだろう。

悠真は、答えのない問いを、

何度も心の中で繰り返した。

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