第7話:不器用な生活、芽生える絆
朝の光が、リビングに柔らかく差し込む。
冷え切っていたはずの部屋に、
ほんのりと温かい気配が満ちていた。
美咲がいた頃のような、完璧な整頓ではないけれど、
どこかホッとする、心地よい空気が漂っている。
キッチンからは、ひなたの楽しそうな笑い声が、
かすかに聞こえてきた。
それは、まるで夢を見ているようだった。
俺の、止まっていた時間が、
少しずつ動き始めたのを感じた。
まるで、長い冬の後に、ようやく春が来たかのように。
葵は悠真の家に通い、半ば住み込む形で、
家事とひなたの世話を続ける日々が始まった。
朝食のテーブルには、
葵が作った、少しだけ形が不揃いなオムレツが並ぶ。
美咲のように完璧な家事ではない。
たまに焦がしてしまったり、
味付けが濃すぎたりもする。
だけど、葵の作る料理はどこか懐かしい味がして、
ひなたを笑顔にさせた。
「葵ちゃんのご飯、おいしいね!
ひなた、これ、だいすき!」
ひなたの無邪気な声が、殺風景だったリビングに響く。
その声を聞くと、悠真の心に、
じんわりと温かさが広がっていくのを感じた。
凍え切っていた心臓が、ゆっくりと脈打つようだった。
葵は、ひなたの小さな変化や気持ちにも敏感に気づいた。
ひなたが少し元気がない日には、
黙ってそっと抱きしめ、お気に入りの絵本を読んであげる。
一緒に歌を歌ったり、おままごとをしたり。
美咲が仕事で忙しく、してあげられなかったことを、
葵は当たり前のようにしてくれた。
ひなたは、葵の膝の上で、
安心して眠りにつくことも増えた。
葵の腕の中にあるひなたの寝顔は、
以前よりずっと穏やかだった。
悠真は、美咲がいた頃には気づかなかった葵の温かさ、
そして、彼を責めないその姿勢に、
深い安らぎを感じるようになっていた。
その優しさは、まるで春の陽だまりのように、
凍てついた心をゆっくりと溶かしていく。
まるで、硬く閉ざされた蕾が、
少しずつ開いていくような感覚だった。
葵がいると、ひなたもよく笑い、
部屋の中にも明るさが戻ってきた。
悠真は、少しずつ、自分の体にも力が戻るのを感じた。
会社にも顔を出すようになる。
書類の山を前にしても、以前ほどの絶望感はない。
仕事中も、ふと葵とひなたの笑顔が頭をよぎる。
美咲を失った絶望が、少しずつ薄れていくようだった。
だが、その感情の裏側には、
亡き妻への罪悪感が、常に影を落としていた。
俺は、こんなにも早く、
美咲ではない誰かに安らぎを感じていいのだろうか。
美咲は、完璧な妻だった。
俺は、そんな彼女を、完全に理解しきれていなかった。
その後悔が、心の奥底でチクリと痛む。
そんな葛藤が、悠真の心の中で静かに渦巻いていた。
夜、葵が寝た後、一人でビールを飲みながら、
悠真は、美咲との思い出の写真を眺めていた。
美咲の笑顔は、写真の中でも完璧だった。
ある日の午後、悠真がひなたを幼稚園に迎えに行った。
園庭には、元気いっぱいに遊ぶ子供たちの声が響く。
鉄棒で逆上がりをする子、砂場で山を作る子。
ひなたは、悠真の姿を見つけると、
満面の笑みで駆け寄ってきた。
「パパ!葵ちゃんもいるよ!」
ひなたが指差す先には、他の母親たちと談笑する葵がいた。
葵の周りには、いつも自然と人が集まっていた。
ひなたの保育士である田中先生(30代後半、独身、悠真に好意あり)が、
悠真に気づき、笑顔で近づいてきた。
田中先生の視線は、悠真に向けられているように見えた。
少しだけ、期待を帯びたような視線だった。
「ひなたちゃんのお父様、いつもお世話になっております。」
そう言って、田中先生は葵に向かって、
さらに明るい声で尋ねた。
「ひなたちゃんのお母様ですか?
いつもお迎えありがとうございます。」
葵は一瞬戸惑い、その顔に微かな影が差す。
悠真の視線を感じながらも、
「いいえ、ただの幼馴染です」と、
少しだけ寂しげに答えた。
その言葉の裏には、どこか諦めのような響きがあった。
美咲の完璧な存在を、葵がどれほど意識しているのか。
悠真には、その痛みが伝わってきた。
その時、葵の胸に、拭い去れない「二番目」の感情が
再びよぎったのが、悠真にも見て取れた。
悠真は、葵のその表情を見て、胸の奥にチクリとした痛みを感じる。
まるで、鋭い針で刺されたようだった。
彼は、葵が自分にとってどれほど大切な存在になっているのかを、
漠然とではあるが感じ始めていた。
美咲を失った悲しみと、葵の存在への感謝。
そして、葵への新たな、しかし曖昧な感情。
その全てが、悠真の心の中で複雑に絡み合い、
彼は自身の感情の行方を測りかねていた。
幼稚園からの帰り道、ひなたが葵の手をぎゅっと握り、
「葵ちゃん、ひなたのお家に来てくれる?
夜も一緒にご飯食べようね!」と尋ねた。
葵は優しい笑顔で、「もちろんよ。ひなたちゃんと一緒なら」
と答えた。
その声は、悠真の心に、温かい余韻を残した。
ひなたと葵の間に、新しい絆が芽生え始めている。
それは、美咲がいた頃にはなかった種類の温かさだった。
だが、悠真の心には、まだ美咲への罪悪感が横たわっていた。
この温かさは、美咲への裏切りではないのか。
葛藤は、静かに彼の心を蝕んでいく。
夕暮れの空が、悠真の心を映すように、
赤く染まっていた。
空の彼方に、美咲の顔が見えるような気がした。
悠真は、その問いに、まだ答えを出せずにいた。
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