第6話:差し伸べられた、小さな手
夜が明けても、部屋は重い空気に満ちていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光も、
なぜか灰色に見えた。
ひなたの小さな寝息が、か細く聞こえる。
俺は、冷たいフローリングに座り込んだまま、
朝の光が差し込むのをただ見上げていた。
美咲が天国へ行ってから二ヶ月。
俺の時計は、あの日から止まったままだった。
世界が、俺を置き去りにして進んでいくようだった。
時間だけが、意味もなく過ぎ去る感覚に囚われた。
美咲の死後、悠真の生活は完全に崩壊していた。
会社からは無断欠勤が続き、
同僚からの電話にも出られずにいた。
スマホは充電が切れ、ただの冷たい塊と化す。
もう誰の声も聞きたくなかった。
冷蔵庫の中は空っぽになり、
代わりにコンビニの空き容器が散乱していた。
床にはホコリが積もり、
美咲との思い出の品々も、
色あせていくようだった。
洗面所の鏡には無精ひげだらけの自分が映り、
その目は、まるで生気のない沼のようだった。
自分の顔を直視するのも嫌だった。
ひなたの世話もままならず、
彼女は母親を失った寂しさから、
夜泣きや癇窶がひどくなる一方だった。
小さな体に、どれほどの不安を抱えているのか。
俺には、ひなたを抱きしめることしかできなかった。
それすら、精一杯だった。
ひなたの小さな顔に、絶望の影が差しているのを見るたび、
俺は胸が締め付けられた。
息をするのも苦しいほどの、重い空気だった。
そんな悠真の惨状を見かねた葵が、自宅を訪れた。
インターホンを何度鳴らしても応答がない。
不安に思った葵は、ドアが少し開いているのを見つけ、
意を決して中に入った。
そこで葵が目にしたのは、荒れ果てた部屋と、
ソファに座り込み、天井を見つめる悠真の姿だった。
彼の顔は痩せこけ、その目は虚ろだ。
そして、その隣で、小さな体を震わせ、
かすかに泣き続けるひなた。
美咲がいた頃の、あの明るいリビングは、
見る影もなく荒廃していた。
冷え切った部屋の空気が、
その絶望的な状況を物語っていた。
シンクの悪臭が、鼻を刺激する。
葵は、その光景に息をのむが、次の瞬間には、
もう体が動いていた。
まずはひなたを抱き上げ、優しくあやし始める。
ひなたは最初、警戒するように葵を見たけれど、
葵の腕の中で、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「……ママのにおい、じゃないけど、ちょっとだけ、にてる」
ひなたの小さな声が、葵の耳に届く。
その言葉に、葵の表情が微かに揺らいだ。
葵は、ひなたの小さな髪をそっと撫でた。
葵はひなたを抱きかかえたまま、
台所のシンクに積み上げられた食器を片付け始める。
リビングに散乱したゴミをゴミ袋にまとめ、
荒れた床を掃いていく。
掃除機のモーター音が、久々に部屋に響いた。
悠真は「帰ってくれ」と、絞り出すような声で拒絶するが、
葵は何も言わない。
ただ「いいから、寝てて」とだけ答え、
黙々と家事をこなす。
まるで、そこにいるのが当たり前であるかのように。
葵の動きには、一切の迷いがなかった。
葵自身にも、過去に深く傷ついた経験があった。
それは、悠真と美咲が付き合い始めた頃のことだ。
ずっと好きだった人に、「二番目」だと言われ、
その想いを諦めざるを得なかった。
あの夜、私は一人、
冷たい雨の中を泣きながら深夜の道を走り続けた。
足が棒になるまで、ただ、前に。
その時、履いていた、少し大きめのスニーカー。
靴底が、アスファルトを叩く音が、
私の心臓の音のように響いていた。
あの痛みと、目の前の悠真の絶望が重なる。
だけど、今、泣いているのは私じゃない。
私はもう、一人じゃないんだ。
ひなたの小さな手と、悠真の絶望した顔を見て、
葵は自分の痛みを押し殺し、涙を拭った。
彼らのために動くことを選んだ。
それが、かつての自分にできなかったことだから。
もう、誰も、一人にさせたくなかった。
葵は、悠真が目覚めた時には温かいスープを用意し、
ひなたの着替えも済ませていた。
悠真が目を覚ますと、部屋には、
どこか懐かしいスープの香りが漂っていた。
食卓には、ひなたが静かに座り、
葵が作ったお粥を、ゆっくりと口に運んでいた。
ひなたの泥だらけの靴がベランダの隅に置かれているのを見て、
葵は黙ってそれを手に取った。
洗面台で丁寧に泥を落とし、
ベランダに干した。
洗濯ばさみに挟まれた小さな靴が、
夕日に照らされ、まるで希望の光のように見えた。
その時、葵は心に誓う。
「私が、この子たちを守るんだ」と。
悠真は、そんな葵の背中を、
ただ、ぼんやりと見つめていた。
それは、美咲の完璧さとは違う、
温かくて、不器用な、しかし確かな優しさだった。
悠真は、食卓の端に置かれていたコップを手に取った。
「――ありがとうって、言わなきゃな」
ベランダで揺れる小さな靴を見ながら、
キッチンでそれを丁寧に水ですすいだ。
冷たい水の感触が、手のひらにじんわりと広がる。
止まっていたはずの時間が、
少しだけ、動き出したような気がした。
心に、微かな熱が戻ってきたのを感じた。
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