第10話:試練と、葵の本心、そしてビデオレター

悠真の部屋は、静まり返っていた。

タブレットの画面に映る美咲の笑顔が、

どこか寂しげに見える。

美咲が残した最後のメッセージに、

何か意味があるはずだと信じていた。

これは、葵を取り戻す、唯一の鍵だと。

そして、美咲の真意を知るための、唯一の道だと。

あの時、俺は葵を引き留めなかった。

その後悔が、喉の奥にずっと引っかかっていた。

美咲の笑顔が、まるで俺を試しているようだった。

ひなたの小さな寝息だけが、

虚しく部屋に響いていた。


悠真は何度も葵に連絡を試みた。

着信履歴には、数えきれないほどの発信記録が並ぶ。

だが、そのどれもが、呼び出し音のまま終わっていた。

メールを送っても、返信はない。

葵は、意図的に連絡を避けているのだろう。

彼女の気持ちを考えると、無理もない。

それでも、このビデオレターを、

どうしても葵に渡したかった。

焦燥感が、胸の中で募っていく。

悠真は、ようやく彼女の実家を訪ねた。

インターホンを鳴らすと、

しばらくして、葵の母親が顔を出した。

心配そうな顔で中へ招き入れてくれた。

リビングに通されると、そこには葵がいた。

葵の部屋は、以前と変わらず、整理整頓されていた。

本棚には、読みかけの小説が数冊並んでいる。

部屋には、微かにアロマオイルの香りが漂っていた。

だが、その部屋に葵の温かさはなく、

どこか張り詰めた空気が漂っているようだった。

葵は少し痩せていたが、相変わらず穏やかな表情だった。

だが、その瞳の奥には、どこか諦めのような光が宿っていた。

悠真は、タブレットを葵に差し出した。

「これ、美咲が残してたんだ。お前宛に…。」

悠真の言葉に、葵は驚きを隠せない。

彼女の瞳が、僅かに揺れた。

その揺らぎは、まるで水面に投げられた

小石が立てる波紋のようだった。

葵は、ゆっくりとタブレットを受け取った。

その指先が、微かに震えている。

まるで、触れてはならないものに触れるかのように。

悠真は、その場に立ち尽くすしかなかった。


葵は一人、自分の部屋でその映像を再生した。

ドアを閉め、深呼吸をする。

画面に映し出されたのは、

懐かしい、美咲の笑顔だった。

結婚式前夜の美咲が、

白いドレス姿で、少しはにかんだように微笑んでいる。

だが、その笑顔の奥には、

どこか不安の色が見て取れた。

これはね、結婚式の前の夜に撮ってるの。

美咲は、時折涙を浮かべながら、

ゆっくりと語りかけていた。

その声は、まるで遠い記憶の底から聞こえてくるようだった。

「葵ちゃん。あなたは、私にとってただの

“彼の幼馴染”じゃなかった。

正直、あなたのそばにいる彼を、少しだけ羨ましかったの。

私にはないものを、あなたは持っていたから。

飾らない優しさ、ひなたを包む温かさ。

それは、私には足りないものだった。」

美咲の言葉は、葵の心の奥底に深く響いた。

美咲自身も、完璧ではなかった。

そして、葵の存在を、深く見てくれていた。

そのことに気づき、葵の目から、

とめどなく涙が溢れ落ちた。

美咲の言葉が、葵の胸の奥に、

温かい光を灯していくようだった。

「でもね、もし私に何かあったら、彼と、ひなたを、どうか…

『家族』のように、そばにいてあげてほしい。

このお願い、今じゃなくていいから。

でも、私から“あなた”にお願いしたかったの。

ありがとう。これは…お願いじゃなくて、“わがまま”です。」

美咲の言葉は、葵の胸に深く、重く響いた。

美咲の深い愛情と信頼、そして人間らしい「わがまま」に、

葵はとめどなく涙を流した。

画面の中の美咲は、最後まで笑顔だった。

「私は代わりじゃない、美咲さんも私を選んでくれたんだ」

そう悟った瞬間、葵の心に温かい光が灯った。

絶望の淵にいた自分を、美咲が見守ってくれていた。

このビデオレターが、私を救ってくれたんだ。

葵は、タブレットをぎゅっと胸に抱きしめた。

その温かさが、美咲の体温のように感じられた。


その夜、悠真の仕事で予期せぬトラブルが発生し、

彼の精神状態は再び不安定になる。

会社の経営状態が思わしくないという、

厳しい連絡が、取引先から入った。

悠真は、自室で頭を抱え込んだ。

これまで積み上げてきたものが、

全て崩れていくような感覚に襲われる。

まるで、足元から地盤が崩れていくようだった。

悠真が一人で抱え込もうとすると、

葵は悠真の元へ駆けつけた。

インターホンを鳴らし、何度かノックする。

そして、ドアが開くと、悠真のやつれた顔を見た。

彼の目には、深い疲労と絶望が宿っていた。

「大丈夫?何があったの?」

葵は悠真の腕を掴み、涙ながらに訴えた。

その声は、震えていたけれど、確かな響きを持っていた。

「一人で抱え込まないで!私だって…私だって辛い時があるんだから!

私を、もっと頼ってよ!…悠真くんが苦しい時、

私が隣にいられないのは、私だって辛いんだから!」

これまで秘めてきた悠真への想いと、

彼を支え続けたいという本心を、

感情のままにぶつける。

悠真は、葵の涙と、美咲のビデオレターの真意に触れ、

彼女こそが自分にとって真にかけがえのない存在であることに気づく。

「葵…」

悠真は、震える声で彼女の名前を呼び、

強く、強く抱きしめた。

葵の腕の中で、悠真はまるで子供のように泣いた。

美咲を失って以来、初めて流す涙だった。

それは、悲しみだけではなく、

温かい安堵の涙でもあった。

葵の腕の中に、全てを預けられるような気がした。

夜空には、満月が皓々と輝いていた。

その光が、二人の姿を優しく照らす。

二人の影が、一つに重なる。

葵は悠真の背中を、優しく、何度も撫でていた。

その手の温かさが、悠真の心に、

ゆっくりと染み渡っていくのを感じた。

遠くで、夜行列車が通り過ぎる音がした。

世界はまだ動いている。

部屋の奥から、ひなたの寝息が静かに聞こえていた。

まるで、小さな未来が安心して眠っているようだった。

そして、俺たちの物語も、また動き始めたのだ。

時計の針が、新たな時間を刻み始める。

もう、一人ではない。

そんな確かな予感が、悠真の胸に広がっていた。

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