12話

 峻はノートをめくりながら声に出して読んだ。

 陽菜乃は峻の肩越しにページを覗き込み、時折、小さく息を飲む。

「この場所からの脱出は、決して単純なものではない。何度も『選択』を繰り返しながらも、出口はまだ見えず。

 心は彷徨い、日々の不安が積み重なる。だが、戻ることも進むことも、選ぶのは自分自身なのだ。」

 峻は、しばらくページを見つめたまま黙った。

 陽菜乃がそっと声を落とす。

「…教授も、ここに来たんだね。」

 峻はノートを閉じかけて、また開き直す。

「選択を繰り返すって…、出口を探すって…教授もずっと迷ってたのか。」

 陽菜乃は少し考え込むように視線を落とし、それから静かに言った。

「でも、それって元の世界も同じじゃない? 私たちだって毎日、悩んでいるし、選んでる。」

 峻は視線を動かし、陽菜乃の横顔をちらりと見る。

「選ぶって…そんな簡単なことじゃないだろ。」

 陽菜乃は微笑みを浮かべた。

「簡単じゃないけど、だから大事なんだと思う。

 やるかやらないかとか、朝起きるかもう少し寝るかだって、選択でしょ。正しい選択が出来る回数を増やせばそれだけ、前に進める。」

 峻はふっと鼻を鳴らして笑った。

「お前、意外と真面目だな。」

 陽菜乃が肩を軽く揺らしながら目を細める。

「からかわないで。…でも、そうでしょ?」

 峻は小さく頷き、またノートのページをめくり、声を落として読んだ。

「狭間は、私たちの意識と記憶が織りなす空間に過ぎないのかもしれない。ここに来た者たちは皆、自分の『選択』に囚われている。だから出口はひとつではなく、それぞれの心の動きが新たな道を生み出しているのだろう。」

 読んだ後、峻は眉をひそめてページを見つめたままだった。

「…意識と記憶、か。」

 陽菜乃は肩越しに覗き込み、少し考えるように言った。

「自分の選択が道を作るってことなのかな。」

 峻は小さく息をつき、ぼそりと呟く。

「じゃあ…俺たちが出口を見つけられるかどうかも、自分次第ってことか。」

 陽菜乃がうなずきながら目を伏せた。

「逆に言えば、選べなければ、ここに閉じ込められるってことね。」

 峻は苦笑する。

「選ぶの、怖いな。」

 陽菜乃は少し横目で峻を見て、静かに言った。

「…でも、選ぶしかないんでしょ。この世界は」

 峻は視線を陽菜乃に向けた。

 わずかに口を開きかけて、けれど言葉を飲み込む。

 …この狭間の世界だって、悪いことばかりじゃない。

 飯もなんとか手に入って、陽菜乃とずっと一緒にいられる。

 戻ったら、もうこんな風にはいられないかもしれない。

 陽菜乃は真剣な目で彼を見返していた。

 峻はかすかに表情を緩めて、結局は別の言葉を選ぶ。

「…君、強いな。」

 陽菜乃は目を細め、少し意地悪そうに笑った。

「怖くないわけじゃないのよ。でも、帰りたいもの。」

 峻はさらにとノートのページをめくった。

「『選択』という文字を、私は何度も書いた。

 狭間にいるときも、戻ってからも。教室の黒板に、机の端に、手帳の片隅に、私はその言葉を繰り返した。何かを選べば、別の何かは選べない。それ自体は単純なことだ。だが、選ばなかった方が、もし今より良い結末だったのだとしたら。その思いが、ずっと私を縛った。何度も、あの空間の中で、そして戻ったあとも、選択の文字を繰り返し書いた。どちらが正しかったのか、確かめるすべはないのに。それでも選ぶしかなかった。選ばないという選択肢は、最初から存在しなかった。

 選ばないことは、結局何も得られないのだと分かっていたから。」

 峻はゆっくりと声に出して読み終えると、ページから目を離し、陽菜乃に視線を送った。

 陽菜乃は黙ったまま、ノートの文字を追っていた。

「…教授、戻った後もずっと悩み続けてたんだな。」

 峻の声は低く抑えられていた。

 陽菜乃は小さく息を吐いた。

「正解なんて分からないのにね。でも…分かる気もする。」

 彼女は軽く首を振った。

「選んだ後で、これでよかったのかって何度も考えちゃうもの。」

 峻はノートを閉じかけた手を止める。

 心の奥で、わずかに自分を刺す思いがあった。

 戻るってことは、この居心地の良さを捨てるってことだ。陽菜乃とこんなふうに一緒にいる時間も、もう終わるかもしれない。

 選んだ先が今より良いって保証なんかどこにもないのに。

 峻はゆっくりとノートを閉じた。

「…でも、選ぶしかないんだろうな。」

 その声は、誰に向けたものでもなく、ただ吐き出すようだった。

 陽菜乃は少し驚いたように彼を見たが、すぐに頷いた。

「うん。そうね。」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る