第19章「災難への直通線(あるいは、それ以上?)」

土曜日 - 午後3時15分


携帯電話の時計が、午後3時15分ちょうどを示していた。

アケミは無表情のまま腕を下ろし、スマホをジーンズのポケットに突っ込んだ。


遅刻したことは分かっていた。

偶然ではない。渋滞のせいでもない。


ただ…わざとだった。


「どうせ、彼氏じゃないし」


彼が着ていたのは、ロゴも模様もない黒いコットンのTシャツ。お気に入りの一枚だ。

少し色落ちしたジーンズに、母が「女の子と出かけるかもしれないから」と言って洗ってくれた白いスニーカー。


特別なものは、何もない。


「これでいい。普通のデートがしたいって言ったんだろ?これが俺の“普通”だ。無理に背伸びしても意味ないし、学校のバカどもみたいに誰が一番カッコつけるか競う気なんて、さらさらない。相手がみんなを弄ぶような子なら、なおさらだ」


気温は暑すぎず、でも確実に夏の気配を感じさせた。

ショッピングモールは賑わっていた。風船を持って走り回る子供たち、アイスを食べながら騒ぐティーンエイジャーたち、買い物袋を両手に抱える家族連れ。


アケミは中央の噴水の前で立ち止まった。

水が螺旋を描きながら太陽の光を受けてきらめいていた。

空気は熱されたコンクリートと、溶けた砂糖の甘い匂いに包まれている。


「3時って言ってたな。もう来てるはず。どうせどこかで俺のこと見てるんだろ、遅れてきたのもバレバレか。…上等だ」


周囲を軽く見渡す。人が多すぎて視界が散る。

――そのとき、目に入った。


ゆっくりと広場を横切る彼女。まるで異世界から来たような優雅さだった。


アリサ。

真紅のワンピース。


体のラインに沿ったノースリーブのドレス。控えめだが挑発的な胸元。

通りすがる男たちが皆、振り返るほどの存在感。

ドレスの裾は太ももの中ほどまでで、動くたびにふわりと揺れた。


金色のクロスストラップサンダル。肩から小さなバッグを下げ、金髪は低い位置でひとつに結ばれていて、うなじが露わになっていた。


――そして何より、彼を動揺させたのは、その表情だった。


冷たくない。

高慢でもない。

ただ、純粋に――嬉しそうに笑っていた。


「アケミー!」

彼女は手を挙げ、可愛らしく指を振った。


アケミは無意識に唾を飲み込んだ。

なぜか分からない。ただ、今回は何もなかったように振る舞えない気がした。


「…この完成度。こんなの、“ちょっと気になる相手との初デート”じゃない。明らかに、俺への攻撃じゃねぇか」


アリサが彼の前で立ち止まり、全身を眺めた。


「15分遅刻~」

怒る様子もなく、にこやかに言った。

「ミステリアス系男子の戦略?それとも、ただのじらし?」


「地下鉄が遅れてた」


無表情のまま、彼は返す。


「はいはい、了解。…ねえ、見て見て~」

彼女はその場でクルッと回転し、ドレスの裾をふわりと広げた。

「どう?今日の私、どう思う?」


アケミは数秒見つめた後、視線を逸らした。


「…似合ってる」


「ええー!?“似合ってる”だけ!?」

彼女は大げさに肩をすくめて見せた。

「このドレス、限定品なのよ!?2ヶ月前に注文して、今日が初めてのお披露目なのに~!しかも、ちゃんと脚もツルツルにしてきたんだからっ!」


「報告ありがとう」


相変わらずの無表情。

だが、内心では――


「やばい。この完成度、まじで危険だ。こんな攻め方、俺の安全圏から一歩も出られないじゃねえか。でも、“すごく綺麗だ”なんて言ったら…あいつ、絶対に“勝った”って顔する…それだけは嫌だ」


アリサはクスッと笑い、横目で彼を見た。


ゆっくりと近づきながら、口を開く。


「ほんっとに、全然気合い入れてないのね。黒Tに普通のジーンズ、寝起きみたいな髪型…」

片眉を上げて見つめる。

「それが、“アケミの魅力”ってやつ?」


「寝起きじゃない。これが俺だ。お前が“リアルなデートがしたい”って言ったんだろ」


彼女は微笑み、目を閉じて小さくうなずいた。


「それが好きなの。作ってない、飾ってない…本当のアケミ。その言葉一つ一つが、私の心にズキューンってくるんだから」

そう言って、彼の腕を当然のように取った。


アケミの体がわずかに強張る。だが、腕を振りほどくことはしなかった。


「…まただ。聞きもせずに勝手に触れてくる。でも、俺は拒まない。なぜだ?」


「さ、行こっか」

アリサは体を少し寄せてくる。

「今日はただの“男の子と女の子”でいようよ。お互いに、好きって気持ちで一緒にいるだけ。それでいいでしょ?」


アケミは視線を逸らした。


「…俺、お前のことが好きなんて言ってない」


彼女は笑った。


「まだ、ね」


――まるで、すべてが見えない脚本通りに進んでいるかのように。

アリサはアケミの腕を取ったまま、ショッピングモールの中へと彼を引っ張っていった。


周囲の視線が突き刺さる。

“あのアリサが、男にあんなにベタベタしてる…”

“あんな普通のやつが、どうして…?”


でも、彼は気づかないふりをした。


「俺は目立ちたくない。恋に落ちるつもりもない。でも、こんな風に流され続けてたら――いつか、本当に無関心じゃいられなくなる気がする」

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