第18章「罠のような涙」

木曜日・12時15分/教室に戻る途中


アケミは校舎の側面にある廊下を歩いていた。

頭の中では、さっきユメと話したことが何度も繰り返されていた。


「穏やかだったな…。正直で、裏がない会話…

最近の僕の生活には、そんなシンプルなものは滅多にない」


階段の前を通り過ぎようとしたその時――

誰かが目の前に立ちふさがった。


金髪。きちんと整った制服。

冷たい目つき――でも、いつものような冷たさではなかった。


アリサだった。


「アケミ」

彼女は落ち着いた声で言った。

「少し、話がしたいの」


アケミは無言で彼女を見つめた。


「…今?」


「今じゃなきゃダメ。すぐ終わるから」


アケミはため息をつき、壁にもたれかかった。


「で、何の用だよ」


アリサは一歩前に出た。

その声はいつものように上品だったが、どこか不安がにじんでいた。


「聞きたいことがあるの。クラブのリーダーとしてじゃなくて――私、アリサとして」


アケミは眉をひそめた。

「…何を?」


アリサは彼の目をまっすぐ見つめた。


「どうしてミウだけが君の家に行けるの?

どうして彼女は君に触れたり、君のお母さんと笑い合えたりするの?

どうして彼女は何時間も君のそばにいられて、君は何も言わないの?」


アケミは返事をしなかった。


「…嫌なの?」


アリサは唇をぎゅっと噛みしめた。

その声には、かすかな震えがあった。


「嫌というわけじゃない。

でも…理解できないの。

私も同じようにしたいのに。

戦略なんて立てずに、ゲームだって忘れて、ただ君と一緒にいたいの」


アケミは視線を逸らした。


「君がこのゲームを始めたんだろ」


「そうよ!」

アリサは声を荒げた。

「でももう疲れたの。

何もかもが勝負みたいで…

ミウが君のお母さんに会ったって聞いたとき、

君が彼女の家に入ったって聞いたとき――

すごく…惨めだったの。

私も…本当の君を知りたいの。心から」


アケミは息をのみ、少し後ろに下がった。


「…君が言ってることが、本気なのかどうかもわからない。

ただ…こんな風に利用されるのは、もう嫌なんだよ」


そう言って、彼は踵を返した。


その時だった。


小さな、かすかな――けれど確かな――すすり泣く声が聞こえた。


アケミが振り返ると、

アリサは俯き、静かに涙を流していた。


叫び声でも、演技でもなかった。

ただ…静かに、ぽろぽろと涙が頬を伝っていた。


彼女は足元に崩れ落ち、震えながらつぶやいた。


「ごめんね…プレッシャーをかけるべきじゃなかった…

ただ…ただ私を、クラブのリーダーじゃなくて、“アリサ”として見てほしかったの…」


アケミは彼女を見つめた。


そして…数日ぶりに“あの”アリサではなく、

プライドの高いリーダーでもなく――

ただの、一人の女の子としてのアリサがそこにいるのを感じた。


「…もしかして、本当に演技じゃないのか?

もしかして、彼女も僕と同じで…ただ“ひとり”なのか?」


「…俺に、何をすればいい?

君が楽になれるために、俺は何をすればいい?」


アケミが小さな声で問うと、

アリサは顔を上げた。


泣き顔のまま、優しく微笑んで。


「ただ…一度だけでいいの。

私と“本当のデート”をしてくれない?

普通の人みたいに、気楽に、プレッシャーなしで…」


アケミは彼女を見つめた。


「…正直、よく分からない。でも…君が泣いてるのを見て、断れないよな」


「わかった」

そう言って、アケミはため息をついた。

「一度だけ。デートしよう」


アリサはそっと笑い、涙をぬぐった。


「ありがとう、アケミ…」


──その頃、廊下の端では…


ユメがいた。

温室の角、壁の影から二人の様子をじっと見つめていた。


彼を追いかけ、忠告しようとしたのだ。

守るために。


でも、できなかった。


なぜなら、その瞬間。


アケミがアリサの前で立ち止まったとき、

ユメのすぐ後ろに誰かが現れた。


リカだった。


にやりと笑いながら、無言で。


リカはユメの後ろに立ち、口を手で塞ぎながら温室の壁に押しつけた。


「シーッ…邪魔しちゃダメよ」

リカが囁くように言った。

「もう遅いの。ちゃんと見なさい、ユメ。あなたはもう…負けてるのよ」


ユメはもがいた。

必死に、アケミとアリサの姿を見ていた。


アケミが手を差し出す。

アリサが涙を流す。

そして、その一瞬が…すべてを決めた。


ユメの心は深く沈んだ。


「いや…アケミ…」


リカは小さく笑い、ユメをそっと離した。


「大丈夫よ。次は頑張りなさい。

でもこのゲームでは…弱い者から消えていくのよ」


ユメは拳を握りしめた。


その手は震え、心は悲しみと怒りでぐちゃぐちゃだった。


アケミはアリサと去っていった。


ユメは…その場に立ち尽くしていた。


「…負けたんだ」

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