第8話 私が忘れた私
週末、私たちは夜明け前の薄闇に紛れて街を出た。統制局の目を欺くため、情ケーの電源は切り、交通機関は使わず、アキラが事前に調べておいた裏道を、ひたすら自転車で走った。夜気を含んだ冷たい空気が、緊張で火照った頬を撫でていく。
森の奥深くに佇む『旧・桐山基礎科学研究所』は、想像以上に不気味な場所だった。蔦に覆われたコンクリートの建物は、まるで巨大な墓石のように、静まり返った森の空気を支配している。人の手が入らなくなって十年近く。自然は、人間が作り上げたものを、ゆっくりと、しかし確実に飲み込もうとしていた。
「……ここだ」
アキラは自転車を茂みに隠しながら、建物を鋭く観察する。私も息を殺して、その廃墟を見つめた。ガラスはほとんどが割れ、壁には無数の落書き。だが、その荒れ果てた様子とは裏腹に、建物全体から言いようのないプレッシャーが放たれている。ここが、ただの廃墟ではないことを、肌が感じ取っていた。
私たちは、割れた窓から慎重に建物の中へ侵入した。中は、外見以上に荒廃していた。ひっくり返った机、散乱した書類、錆びついた実験器具。床に積もった埃とカビの匂いに、微かな薬品の匂いが混じっている。
「手分けして探そう。何か、親父が言っていた『入口』に繋がるものがあるはずだ」
「うん」
私たちは頷き合い、別々の廊下へと進んだ。懐中電灯の光が、暗闇を心細く切り裂く。歩くたびに、床に落ちたガラスの破片が音を立てた。
私は、なぜかこの場所に、奇妙な既視感を覚えていた。薄暗い廊下、薬品棚が並ぶ実験室、窓から見える木々の揺れ方。初めて来たはずなのに、全てが夢の中で一度見たことがあるような、そんな感覚。
ある一室に入った時、その感覚は確信に変わった。
そこは、他の部屋より物が少なく、中央に一台だけ、古びたリクライニングチェアのようなものが置かれていた。壁には、子供が描いたような、太陽や花の絵が数枚、色褪せて貼られている。
その部屋に足を踏み入れた瞬間、激しい耳鳴りと目眩に襲われた。
キーン、という金属音。視界がぐにゃりと歪み、目の前の光景がノイズに塗りつぶされる。
――ジジッ、ザザザッ!
立っていられず、壁に手をつく。懐中電灯が手から滑り落ち、床を転がった。
ノイズの向こう側。そこに見えたのは、廃墟ではない、白く清潔な、生きていた頃のこの部屋の姿だった。
そして、中央の椅子に、誰かが座っている。
小さな、女の子だ。頭に、たくさんの電極のようなものがつけられている。
女の子の隣には、白衣を着た優しい目をした男性が立っていた。彼は、女の子に何かを優しく語りかけている。
『大丈夫だよ、美月ちゃん。怖くない。すぐに終わるからね』
その声を聞いた瞬間、私の頭の中に、知らないはずの記憶が、濁流のように流れ込んできた。
注射の冷たい感触。モニターに映る複雑な波形。頭に響く不快なノイズ音。そして、窓の外でいつも優しく手を振ってくれた、白衣の男性――アキラの父親の、若き日の姿。
「あ……あぁっ……!」
頭が割れるように痛い。私は、ここにいた。この部屋で、被験者として、あの中央の椅子に座っていたのだ。私は、記憶汚染の、最初の被害者の一人だった。
「おい、美月! どうした!」
私の叫び声を聞きつけ、アキラが駆け寄ってくる。だが、彼の声は遠い。私の意識は、過去と現在の境界線で、激しく引き裂かれていた。
「思い……出した……」
私は、うわごとのように呟いた。
「私、ここに……いた……」
流れ込んでくる記憶の断片。それは、この世界のものではなかった。薄い板(=スマートフォン)を指で操る母の姿。壁にかかった液晶テレビに映る、見たこともない海外のドラマ。父が「グーグルで調べればすぐだよ」と笑う声。それらはすべて、「向こう側」の、私が本来体験するはずだった日常の記憶。
そして、最後に、鮮烈な光景が脳裏に焼き付いた。
この研究所が、パニックに陥る様子。鳴り響く警報。白衣の人々が逃げ惑う中、アキラの父親が、泣き叫ぶ私を抱きかかえ、「君の記憶は、我々が必ず『保護』する!」と叫ぶ姿。
「……美月!」
アキラに強く肩を揺さぶられ、私はハッと我に返った。視界のノイズが消え、目の前には再び、荒れ果てた廃墟の部屋が広がっている。呼吸は荒く、全身は冷たい汗でぐっしょりと濡れていた。
「しっかりしろ! 何が見えたんだ!」
「……私……」
私は、震える指で、部屋の隅に打ち捨てられていたカルテの棚を指差した。アキラが懐中電灯で照らすと、散乱したファイルの中に、一枚だけ、表紙が見えているものがあった。
そこに書かれていた文字を、私たちは同時に読んだ。
被験者名:星野 美月
担当医:相葉 誠一郎
アキラの父親の名前。そして、私の名前。
『彼女を巻き込んではならない』
その言葉の、本当の意味。
私は、鍵だった。
そして同時に、この世界の歪みが生み出した、最初の「バグ」そのものだったのだ。
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