第7話 汚染された記憶の在り処

『彼女を巻き込んではならない』


 あの最後の一文は、私とアキラの間に、見えないガラスの壁を作った。PCルームで顔を合わせても、アキラは以前のように「向こう側」の話をしなくなり、ただ黙々と彼のノートPCに向かう時間が増えた。私を危険から遠ざけようとしている。その沈黙が、何よりも雄弁にそう語っていた。


 私は私で、自分自身の輪郭が揺らぐような不安の中にいた。鏡に映る自分の顔。平凡な高校生の、見慣れたはずの顔。けれど、その奥に、私の知らない誰かがいるような気がしてならなかった。海外出張が多い父。あまり自分の過去を語らない母。私の「記憶」は、本当にすべてが本物なのだろうか。アルバムの中の幼い私は、本当にこの世界の光を浴びて笑っているのだろうか。


 疑念は、じわりと広がるインクの染みのように、私の日常を侵食していった。


 そんなある日の放課後、アキラが重い口を開いた。


「……分かったぞ。『旧K研究所』の正体だ」


 彼は、私を突き放すことを諦めたのか、あるいは一人では抱えきれなくなったのか。画面に表示されたのは、古びた施設のモノクロ写真だった。


「正式名称は『旧・桐山基礎科学研究所』。1990年代に、脳科学と記憶保存に関する最先端の研究を行っていた場所だ。そして99年、大規模な火災事故を起こして閉鎖された。表向きはな」


「……本当は?」


「親父のメモによれば、火災は偽装だ。本当の閉鎖理由は、『被験者の大規模な記憶汚染』」


 記憶汚染。その言葉に、私は息を呑んだ。


 アキラは続けた。


「世界間干渉は、時空を歪ませるだけじゃない。高レベルの干渉に晒された人間の脳は、『向こう側』の情報をノイズとして受信してしまうことがある。ありえないはずの単語、見たこともない風景、触ったこともない機械の感触……そういう断片が、本人の記憶と混じり合い、汚染していく。親父はそう仮説を立てていた」


 ハッとした。早苗が口走った「つべ」という言葉。あれは、単なる言い間違いではなかったのかもしれない。彼女もまた、気づかないうちに、微弱な干渉に「汚染」されていたのだとしたら?


「『鍵は"記憶"』。そして、記憶を研究していた研究所……」


「ああ、偶然じゃない。親父は、この研究所こそが、世界の分岐の謎を解く鍵だと考えていた。そして、統制局が最も神経を尖らせている場所でもあるはずだ」


 研究所の所在地は、この街の郊外。あの旧電波塔からも、車で三十分ほどの距離にある森の中だった。


「……だが」


 アキラは一度言葉を切り、決意を固めたように私を見据えた。


「お前はもう来るな。ここから先は、俺一人で行く。親父の言葉が、ずっと頭から離れないんだ」


『彼女を巻き込んではならない』


 その言葉が、ガラスの壁となって私たちの間に立ちはだかる。アキラの目は、私を案じていると同時に、私という存在の不確かさに怯えているようにも見えた。


 でも、もう引き返すことはできなかった。謎の中心に、自分自身がいるかもしれない。そう気づいてしまった今、安全な場所から真実が明かされるのを待つなんて、自分自身を裏切る行為に思えた。


「……嫌だ」


 私は、震える声で言った。


「私、行く。アキラくんが一人で行くなら、私も一人で行く」


「馬鹿を言うな! 危険すぎる!」


「危険なのは分かってる! でも、私、もう逃げたくないんだ!」


 私は椅子から立ち上がり、アキラの目をまっすぐに見た。


「『彼女』が誰なのか、私には分からない。でも、もしそれが私のことだったとしたら……答えは、私の中にしかないのかもしれない。私の記憶が本当に『鍵』なら、あの研究所は、私にしか開けられない扉かもしれないでしょ?」


 もう、偶然迷い込んだ傍観者でいるのは終わりだ。私は、私の意志で、この物語の中心に立つ。


 私の言葉に、アキラは何も言えなくなった。彼の瞳に、驚きと、困惑と、そしてほんの少しの諦めのような色が浮かぶ。彼は、私の覚悟の強さを、見誤っていたのかもしれない。


 重い沈黙の後、アキラは深くため息をついた。


「……分かった。だが、絶対に俺から離れるな。何かあったら、すぐに逃げろ。いいな」


 それは、共犯者としての、新しい契約だった。


 私たちは、統制局の目をかいくぐり、廃墟と化した研究所へ向かうことを決めた。


 窓の外では、夕日が教室をオレンジ色に染めている。それは、あの日、私が世界の異変に気づいた時と、同じ色の空だった。


 ただ一つ違うのは、今の私はもう、ノイズに怯えるだけの少女ではないということだ。


 私は、私の謎を解くために、世界の綻びへと、自ら歩き出す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る